こんな本を読んだ。
タイトル通り
70歳近くになるまで
精神病患者として生きてきた人の本。
アナウンサーになってから
いろんな人に会うようになって、
それまでに出会った人とのことも合わせて
人の心のことを時々考えるようになった。
考えているだけだったのだが
田口ランディさんと知り合ったことで、
自分の中で大きく変わったことがある。
何が変わったかというと、
「誰かのことをを理解したり解釈しようとする前に
その人のその時のことが
その人にとってのリアルであることをまず思うこと」が
少しずつできるようになったことだ。
これはこの1年ぐらいで
もっとも大きな変化だった。
私はアナウンサーになる前
国立国会図書館に勤める公務員であった。
昼間働きながら
夜大学に通っていた。
国会図書館に勤めている頃、
同じ職場の人が
躁うつ病(気分障害)になった。
ものすごく気が大きくなったり小さくなったりする。
その頃の仕事は
カウンターでの受付業務を
ローテーションでやっていて
その人と一緒になることが一日一度はあった。
受付の合間に話す
どうということのない話が好きだったが
ある日から
段々とその人が変化していった。
ものすごく真面目な人だったのに
近所のフィリピンパブの女の子に入れあげている話を
よく話すようになった。
あれ、どうしたんだろうと思っていたら
ほんのちょっとしたことで
カウンターで泣き出してしまったり、
来た人にものすごくぞんざいな態度をとってしまったり。
つい最近までこんな人ではなかったので
ものすごくとまどった。
人付き合いが器用な人ではなかったが
物知りで温厚で
私はその人の不器用さもひっくるめて
嫌いじゃなかった。
今になって考えてみると
当時の仕事はとても単調な仕事であった。
受付業務のみという係だったので、
1時間受付に出て、ちょっと休憩して
また受付、という仕事。
若い人か年配の人しかいなくて
若い人は仕事に慣れると
違う係に異動したが
定年目前の人は
定年までその係にいるのが常だった。
国会図書館には4年間勤めたが
あの1年が仕事としては一番ラクだった。
とはいうものの、
とにかく人と接する仕事だったので
気を遣う仕事でもあった。
何かを売るのではなく
本のコピーの受付をする仕事だったし、
受付しつつ
コピーの制限について説明しなければならなかった。
ちょっと話が脱線するが。
著作権の保護期間にある著作物は
その半分までしかコピーできないと決まっている。
いくらその本が欲しくても
半分以上コピーしたい場合は作者の承諾が要る。
こんなことはみんな知らないので
みんな普通にコピーしようとするのだが、
その度にこの説明をしなければならない。
「絶版で手に入らない」と言われても
それは私達にはどうしようもないので
「できません」と言うしかない。
それをかいくぐって
何日かずらしてコピーしにやってくる人もいるのだが
やっぱり見抜いてしまうので
(毎日たくさんの人と接していると
やっちゃいけないことをやろうとする人は
わかってしまうのだ)
やはり「できません」と言うことになる。
おかしいと思う人もいるだろうが
全部コピーしてしまうと
著作者には印税が1円も入らない。
「収入はいりませんから読んでください」と言う権利は
書いた人にある。
読みたい人の権利よりも
書いた人の権利を優先するのは
当然だと思う。
そういう説明を
当時思いついていれば
トラブルのいくつかは減らせたかもしれない。
しかし当時の私には
この説明が思いつかなかった。
文化庁の著作権講習会にも行ったが
役所が教えてくれることは
原則であった。
だからその原則を話していた。
ストレスが溜まる仕事だった。
とはいうものの
私は夜に大学に通っていたので
そのストレスをちゃんと発散していた。
昼間働いて
夜に大学に通っていた、というと
「苦労したんですねー」と言われるが、
私にとっての大学は
スイッチを切り替える
ストレス発散の場所だったので
苦労したつもりは全然無い。
そんな調子だったので、
20歳をすぎたばかりの私には
目の前で変化していくその人に
どう対処していいかが全然わからなかった。
カウンター業務は面倒だったが
それが私の全てではなかったし、
仕事としては
休憩時間に試験勉強をやっても良かったので
とてもありがたかった。
その同じ仕事が
年齢や立場やその人の人生に照らして
ものすごく辛い仕事になることがある、というのが
ちっともわからなかった。
わからないでいるうちに
その人はある日
無断で仕事を休んでいなくなった。
2日後、沖縄で無銭飲食をして
警察に捕まったという連絡が入った。
それまで私は係長に
何度も「おかしいですよ」と訴えていたのに
係長も課長も何もしなかったので
腹を立てた。
でも、その「おかしい」の何がおかしいのか、
それにどう対処するかなんて
私を含めて誰も知らなかった。
だから何もしなかったのだ。
私も何もしなかったのだから
結局同じことであった。
その後、
図書館の友達が
統合失調症になった。
彼とは採用試験から一緒で、
試験のあと、お互い学生服を着たまま
「お登りさんだねー」と笑いつつ
渋谷の街を歩いたりした。
試験を受けるまで全然知らない人だったのだが
なんだか友達になれそうな気がしたので
声をかけたのだ。
彼は性格が素直で明るくて
誰からも好かれる性格であった。
自分が合格するかもわからないのに
一緒に働けたらいいなーと思った。
だから、二人とも合格しているのがわかったときは嬉しかった。
そんな彼が
図書館の業務の拡大に伴い
大きな責任のある仕事を任されることになった。
一緒に仕事をしていたわけではないので
どういう仕事なのか具体的には知らないが、
彼には期限付きの大きな仕事がのしかかり
結果として
今食べたものを忘れるような状態になってしまった。
彼の誠実さとか
現状から逃げない性格はよくわかっていた。
それでやっと、
人が持っている容れ物のようなことを考えた。
人をダムに例えたら、
ダムが溢れそうになったときに
下流の人のことをとりあえずは忘れて
水を流すことができたら
ダムは溢れないし壊れないので
ダムとしてはラクだ。
でも、真面目なダムは
いきなりこの水を流したら
下で人が溺れたり洪水が起きたりするかもしれない、と思って
ダムの力ギリギリまで頑張って
結局決壊してしまう。
そんなようなものなんじゃないか。
この例えが正しいかどうかはわからない。
私がそう考えただけだ。
でも私は思ったのだ。
誰のどんなダムだって
集中豪雨が起きたら決壊するかもしれない。
そして
人生にいつ集中豪雨が起きるかわからない。
だから他人事じゃない。
その後、
大学の後輩から
「あたし今、精神科に通ってるんですよー」と
電話がかかってきたりしたが、
彼のことをきっかけに何冊か本を読んだりして
薬がいろいろあることがわかっていたので
「そりゃ心が風邪ひいたんだねー、
風邪ひいたら病院に行かなくちゃねー」などと言っていた。
前ほど戸惑わなくなったし
相談に乗っているつもりであった。
でも、それも違うなと今では思う。
私は、自分のできる範囲で
理解をしようとしたのだった。
今はっきりと言えることは
結局私には何もわかっちゃいないということだ。
同じ経験をしていない私には
わかるなんてことは無理だ。
だから、
相手の現実を
自分とか社会常識と比べず
その人にとってはそれが現実なのだ、と
「思う」ことぐらいしかできないのだと
考えるようになった。
話がやっと戻るのだが、
この本に書かれていることを
自分の常識で読んだなら
とてもワガママだと感じると思う。
でも、書いた人自身が
精神病者はワガママだ、と言っているのだから
その感想は外れてはいない。
そのワガママをとりあえず置いといて
これがこの人の毎日であり、リアルだと考えて読んでみると
記憶の価値の並列ということに
驚いてしまう。
私は普段、
覚えておきたいこととそうでないことを無意識に分けて
どうでもいいことはどんどん忘れてしまうが、
この人は
ものすごくいろんなことを
優劣をつけずに覚えている。
時間も話の流れも関係なく
カミュの話と宗教の話とセックスの話が
並列で出てくる。
私はこんな風にものを見たことが無いが
この著者は
毎日こんな風に
並列にモノを見て記憶してそれと向き合っている。
優劣がつけられない。
いろんなものが自分の意思とは関係無く立ち上がってきて
心のほとんどを占めてしまう。
私の毎日がこうだったら
とても辛いと思うが、
この人にとって
毎日はこうなのだ。
そう思って読めるようになったら
腹は立たない。
私には見えない世界だからだ。
結局は
「聞く耳」と同じようなことかな、と思う。
聞いたことが無い音だからといって
耳の形を曲げたり、耳をふさぐんじゃなく
ひとまず聞いてみる。
その音が
相手にとってのリアルだから。
長々書いたわりに
話がまとまらなかった。
すいませんー。
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