私はひょんなことからクラシックバレエを習うことになって、ひいこら言いながらレッスンに通っているわけだが、それまでバレエを見たことも無かったし、バレエのことなんか知らなかった。
そんな私でも知っている名前がシルヴィ・ギエムであった。もともと体操選手で、12歳でオリンピック代表選考会を通過し、オリンピック強化選手としてパリ・オペラ座バレエ学校でバレエの研修をしたときに見出されてバレエダンサーになったという経歴の持ち主。
ギエムの身体的能力をあらわす言葉に「6時のポーズ」というのがある。片足で立ち、もう片方の足がぼぼ180度上にまっすぐ上がる。「舞姫 テレプシコーラ(山岸涼子)」にも出てくる二重関節の持ち主だ。
新体操の取材をしてきた私には、この180度上がる足というのは珍しいものではなかった。というか、アリーナ・カバエバという選手が出てきたおかげで、そういう体の持ち主じゃないと点数が出ないルールになってしまい、結果的に現在の世界のトップ選手はみんな「6時のポーズ」だ。それが美しいかは別問題で、正直に言うと今のルールは好きではないが。
ベジャール振り付けのボレロというと、ジョルジュ・ドンのものが有名だが、私は見たことが無い。ジョルジュ・ドンにも「最後のボレロ」があって、ギエムも今回が「最後」だというなら、きっと長く続けられない踊りなんだろうと想像していたのだが、この踊りは、舞台の上で踊れるだけで奇跡のようなものだと思った。
書き始めておいてなんだが、あれはもう生で観るしかない。最後だというなら、今観るしかない。
丸いテーブルのような台が舞台の上にあり、ギエムはそこで踊る「メロディ」、そして周囲で踊る男性ダンサーは「リズム」なのだそうだが、申し訳ないがリズムなんか目に入らないほどギエムの動きは繊細で大胆で正確で端正で…といくら言葉を重ねても意味が無いと思えるほどの凄さであった。「最後のボレロ」と銘打っているのだから、みんな彼女を観に来ているのだが、彼女が踊り始めたら、もう目を離すことができない。観に来たんじゃない、観るためにここに来させられたんだと思うほど。
あの「6時のポーズ」だって、ただ上がっているんじゃない。曲のリズムを外さずに極限まで上げて降ろす、その繰り返しを、一切手を抜かずにやり続ける。
ラヴェルの「ボレロ」という曲を知っている人は、あの曲の意識的な単調さがわかると思う。メロディは同じで、曲の最後に向かってどんどん楽器が増えて、壮大なクライマックスを迎える。ということは、この曲を踊るということイコール、休むことなく踊り続けた挙句、最後にクライマックスがやってくる、ということを意味する。肉体的に一番キツいところで最大限に踊ることが要求されるだけではなく、曲全体で、体を使って緩急を表現しなければならない。
ボレロを踊るダンサーは、振付師のベジャールによって限られているそうだが、これは踊りたいからといって踊れるものじゃない。ろくにバレエなんか知らない私でもわかるぐらい、ダンサーのすべての力を使って踊るのがこの作品で、踊るためにはその「すべて」のレベルが高くなければならない。ベジャールが許しているのではなく、バレエダンサーとして神様から許されている人が踊れるものなんだと思う。
まばたきを忘れるほどに、食い入るように観た。そして心から拍手をした。バレエの公演は、何度も何度もカーテンコールがあるのが当たり前のようで、それはあんまり好きじゃないのだが、ギエムには何度も、心から拍手をした。だって、こんな踊り、絶対に長くは続けられない。よくぞ私が観るまで続けてくれていたな、という感謝の気持ちすらあった。
これを書くにあたって、ギエムの名前で検索をしたら、今バレエをやっている私から見たら「あなた何様?」みたいなブログがたくさん出てきて面白かった。まぁ確かに、ギエムと比べたら東京バレエ団の日本人ダンサーは平凡に見えるかもしれないし、高いお金を払って観ているんだから感想も自由だ。
でもねぇ、そう言うならアンタやってみなさいよ、と今の私は思う。ギエムは置いといて、その他のコールドと呼ばれるダンサーよりずっとずっと易しいことが全然出来ない。まずバレエの形を作るためにとてつもない努力が必要で、その先に「踊る」があるのだと思うと気が遠くなる。
ブログなんてものができたおかげで、ごくごく普通の人でも批評とか批判とかが簡単にできるようになったのだけれど、自分でやったことが無いものについて何かを言うなら、本気でたくさん見なければならないし、そうじゃないなら「私は好き」「私はあんまり好みじゃない」というような「私の感想」レベルに留めておくのがいいと私は思う。
これは自分が取材というものをしていて日々思うのだけれど、相手に足りないところは見えやすいし言いやすい。でも、人を見るときに本当に必要なのは、その人の本質に何があるかだ。何かが足りなくても、この人にはこういういいところがある。そういうつもりで人を見ていないと、いつの間にか自分が何様かということを忘れてしまう。
今回が最後、とギエムが決めたということは、体力的にもそろそろ限界だと思っているのかもしれない。そして、ギエムのピークはもっと前にあったのかもしれない。
でも別にいい。私は十分感動した。何年か前はもっと跳べたのかもしれない。でも、大事なのは跳躍の高さだけじゃない。あの一回の舞台に、あれだけの力を出せる、そのことでもう十分だ。
最近のコメント