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わかろうとすること


060528



















「誰? WHO AM I ?」  渡辺謙 ブックマン社

 渡辺謙さんの本を読んだ。

 この本は「明日の記憶」という映画を観る前に読んではいけない。絶対に。そして、映画を観て何かを感じた人は絶対に読んだ方がいい。

 リンクを張るために「明日の記憶」のサイトを検索したついでに、検索にひっかかったサイトやブログに書いてある、この映画の感想をちょっと読んでみた。

 いろんな感想があったが、やはり「もし自分が同じようなことになったら」という不安を感じる人が多いようであった。自分もしくは家族が病気になった経験が無ければ、この感想はもっともだろう。
 若年性アルツハイマーに限らない。交通事故だって殺人事件だって治療法の無い病気だって、いつ誰の身にふりかかってくるかはわからない。その「いつくるかわからない」ことがわかるのは、突然それがふりかかってきた人とその家族だけだ。

 若年性と限らなければ、アルツハイマーによって認知症(痴呆のことをこう呼ぶようになった)の症状が身内に出たという人は多い。そういう経験をしている人が書いている感想は全然違う。「もし」ではなく「自分も同じようなことになるかもしれない」というレベルで、現実として認識しているからだろう。

 高校の同級生が、このブログを読んでメールをくれた。精神科医になっていて、現在はアメリカにいるそうだ。彼のメールにこう書いてあった。

「僕は医者だというのに、未だにガンと戦うひとに対してかけるべき言葉を持っていません。自分が経験しないのに、言葉などみつかりようもないのだけど。精神科をやっていて、期待通りにうまく治っていかない経験がとても多くて、このままじゃ精神科医として貢献できないと感じてもう少し科学的な素養を身につけようと海を渡ったのだけど、尊敬できる科学者には今のところ巡り会えていない」

 彼とは同じクラスだったけれど、仲がいいわけでも悪いわけでもない、ただのクラスメイト(あれ、この言葉ひょっとして死語?)だった。だからメールをもらったときには驚いたのだけれど、同じ年齢で医師という職業に就いた人からのメールと考えて、改めて読んでみた。

 彼は迷っているようなのだが、彼に限らず、患者にかける言葉が的確に言える医師なんてなかなかいないと思う。子供の頃に大きな病気をしていたら、医学部に入るという人生はなかなか選べないだろうし、ちょっとでも体が弱かったら、医師という職業はとても続けられない。やっと国家試験に受かっても、研修医の毎日はとてもハードだし、研修が終わったあとは、実家が開業医で若くして継げるというのならともかく、勤務医としてのハードな毎日が始まる。とにかく、体力が無くては勤まらない。

 病気を経験してから医師になるというのは難しい。ということは、生まれてからずっと健康で生きてきた人が医師になるケースがほとんどだということだ。家族の病気をきっかけとして医師になる人も多いだろうが、体験した辛さは家族としての辛さであって、患者としてのものではない。
 彼は「経験していないのに、言葉なんてみつかりようもない」と書いていたけれど、それはしょうがないと思う。病人の気持ちを理解したいからといって病気になるわけにもいかないし、それは間違っている。一人の人間として、健康であることが一番だ。

 筋ジストロフィーによって首から下の機能を全て失いながら、障害を持つ人のために様々な商品を開発している春山満さんの本を読んだときに、印象に残ったエピソードがあった。飛行機に乗ったとき、手足が動かない自分に、キャビンアテンダントがまるで子供をあやすように接するので怒ったというのだ。
 十分に大人なのに、子供をあやすような態度を取られるのは納得がいかないだろう。だって、たまたま体が動かないだけで、頭は動いているのだから。

 病院でも同じようなことがある。病院に入ると、それまでの社会経験や地位などまるで意味が無くなり、ひとくくりに「患者」ということになる。それが納得できずに権威を振りかざす患者もいて、それは患者としてちっとも賢くないと思うけれど、医療従事者の側も、相手の人格というものがわかっていないなー、と思うことがあった。

 確かに今、あなたにとっては患者だけれど、病院に入るまでは頑張って生きてきて、部下もいるし家族もいるし、とても大きなものを背負っている。たまたま病気になっただけで「はい○○さん、起きてくださーい」なんていう扱いを受けることがどれほど辛いかは、医師や看護士にはわからない。
 最近は患者のことを「患者様」と呼ぶ病院が増えた。でも、私はこんな呼ばれ方はイヤだ。医療従事者の意識を変えようとする試みなのはわかるのだが、こういうのって言葉の問題じゃない。「お医者さん」に対する言葉が「患者さん」だとすると、「患者様」の対義語は「お医者様」になってしまう。それじゃ逆効果だろう。

 といっても、こういうズレが出るのは当たり前だ。ほぼ全員が、医師か看護士しかやっていないのだから、他の職業のことなんてわからない。特に看護職の人は、治療にあたって患者からいろんな話を聞いて、相手を理解して治療に役立てようと努力するのだけれど、残念ながらそのヒアリングからわかった患者像は、その人のほんの一部分でしかない。相手の立場に立つなんて、最初から無理だ。

 偉そうなことを書いているが、私だって同じだ。仕事柄いろんな人に会う。著名な人にも、無名な人にも。でも、私が知ることのできるその人のことなんて、その人の人生からするとほんの一部でしかない。わかるわけが無い。

 でも、ほんの少しでもわかったところ、見えたところは、なんとかして伝えたい。せっかく時間を割いて取材を受けてくれているのだ。全部はわからなくても、何か芯のようなもの、本質に近いものを伝えたい。

 全部はわからないとわかっているが、少しでもわかろうとする。そして、決して全部わかった気にならないこと。
 そういう、積極的なところと謙虚なところを忘れずに、仕事をしていこうと思っている。わからないことに臆病になってやめてしまったら、私の仕事なんて何の意味も無い。

 私が、頼まれてもいないのに渡辺謙さんのことを何度も書いているのは、渡辺さんのドキュメンタリーを見たときに、何か自分の中にある思いと同じようなものを感じたからだ。それが合っているかどうか知りたくて、映画を観て、本を読んだ。
 「ほぼ日刊イトイ新聞」でもこの映画を公開前から取り上げていて、それは読んでいたのだけれど、正直に言うとそれほど心が動かなかった。書いてあることが悪いとかつまらないというのではなく、私には毎日他にやることがあったから、そっちを考える余裕が無かった。
 私を動かしたのは、たまたま見たドキュメンタリーの中で、必死になってこの映画のために働いていた渡辺さんの姿だ。本人の姿が、言葉が、表情が、一番の説得力を持っていた。

 「生きてりゃいいんだ」というセリフは、渡辺さんにとって大事なセリフだろう、とこないだ想像で書いた。本を読んで、それは間違いではないのがわかった。でも、わかっていたから書いたのだ。
 ハリウッドスターである渡辺さんの人生なんて、私には想像もつかないけれど、「生きてりゃいいんだ」だけはわかるのだ。だからといって、全部がわかった気にならない。そんなようなこと。

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