路上チュー
私は政治家だったことが無いし、今後なる気も無い。まったく個人的な感覚なのだが、政治家というのは「精力的」でなければならないんじゃないか。少なくとも、私はちっとも精力的じゃない。
もちろん、とりたてて精力的じゃなくたって政治家にはなれるだろうし、精力的じゃなくても立派に仕事をしている人はいるのだろうけれど、あの世界で大きくなっていくために「精力」は不可欠という気がする。
その「精力」が形として現れるのが、妾を持つとか、誰かを囲うとか、別宅を持つとかいうことであった。男の甲斐性として許容されていたけれど、それには両方をちゃんと養うという経済力が要求された。精力を保つには経済力も必要であった。
今は、たとえ精力と経済力を兼ね備えていても、それは許されなくなった。それどころか、囲われていた人が堂々とその事実を週刊誌に語ったりするようになった。「妾」とか「別宅」という存在は、社会的に許されなくなったのだ。
現代の社会では、婚姻関係を正式に結んだ相手以外との恋愛は「不倫」であり、相手に妻や家庭があることをわかっていて関係を継続している女性は、たとえ経済的援助を受けていなくても「愛人」ということになる。
人は恋をする気持ちを止めることはできない。この気持ちが思うままにコントロールできたらどれだけラクかと思うけれど、コントロールできるような感情だったら恋ではない。いくつになっても、ドキドキしたり、うまくいかないから恋なのだ。
ただ、妻と子を持つ新進気鋭の若い政治家と、局の看板報道番組のキャスターに抜擢された女性アナウンサーは、たとえ恋に堕ちたとしても、路上でチューをしてはいけない。政治家は若くハンサムでどう見ても精力的だし、キャスターは美人だ。この二人が向かい合ったらチューしたくなる気持ちはわかるけれど、やっぱりしちゃいけない。しちゃいけない仕事を二人とも選んでしまったのだから。
私が路上チューをしたとしても何の話題にもならないが、絶対に恋をしてはいけない相手との路上チューってのはちょっとうらやましいな。わかっていてしちゃう路上チューってことだもんな。情熱的だ。
私が週刊誌に載るような路上チューの相手って誰だろう。有名な女優さんなら誰と路上チューしても載るだろう。でも、不倫じゃないんだったら倫理的に問題は無い。私の仕事に影響が出るような路上チューというのは、結婚している著名な女性ということになる。誰だろう。どうでもいいけど。
今回思ったことは、この仕事をしている以上「不倫してるくせに何偉そうなこと言ってんだよ」と思われたら、やっぱり説得力が無いなぁということだ。ましてや報道番組だし。
いくら能力があっても、いくら仕事を頑張っても、一度の不倫でそういうことになってしまう。不倫とはそういうものだ。それを文化と言い換えた石田純一さんはすごいと思うが、そんなことは他の人にはできない。所詮私なんて小心者なので、不倫なんか無理だし、路上チューも無理。
何が書きたかったんだか。
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