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2008年6月

天真庵でセルフエステ

 墨田区の押上駅から10分ほど歩いたところに、古い長屋を改装したカフェ「長屋茶房・天真庵」がある。ここの野村さん夫妻とは、天真庵がオープンする前、みずえさんに誘われて板橋の蜃気楼でごはんを食べたことがあった。押上にとても古いけれどとてもいい建物があって、そこをカフェにしようと思う、という話を聞いて、単純にいいなぁと思ったのだけれど、数ヵ月後に行ってみたら本当にいい場所で驚いた。

 お酒も飲めるが飲み屋ではない。おいしい手打ちのおそばがいただけるが蕎麦屋でもない。あそこはちょっとのつまみとちょっとの酒とちょっとのそばで空気を楽しむ店だと思う。家の近くじゃないからなかなか行けないけれど、近くにあったらほぼ毎日通うだろうな。

 天真庵の2階はギャラリーになっているのだが、みずえさんは時々ここでセルフエステ講座をやっている。きょうはタンちゃんとみかちゃんが講座を受けると聞いていたのだが、私は船橋のIKEAに行っていたので(何故行ったのかはまた改めて)講座終了と同時に合流して飲みから参加した。

 セルフエステの話は以前書いたのだが、私は今でも、楽屋に入ってからメイクをする前にセルフエステをやっている。「レディス4」を担当するようになって、生活が規則的になったこともあって3キロほど痩せたのだが、平行してセルフエステをやっていたので本当に顔が引き締まってしまった。もともと顔は小さい方だが本当に小さくなってしまったのだ。
 もし「レディス4」のオンエアを見ることができる人がいたら、番組を見る前に番組のホームページの上にある私の顔を見ていただきたい。別にどうってことのない私の顔だし、別に太っているとも思わないのだが、今とは顔が全然違う。笑ってしまうぐらいに違う。これは明らかにセルフエステの効果だと思う。

 もはや私はこれ以上顔をスッキリさせる必要は無いのだが、本番前にセルフエステをやると頭がスッキリするのと、疲れていてもちゃんと目が開くので続けている。
 思わぬ効果は、マッサージをするときに何かしら乳液やモイスチャーパックを使うので、勝手に肌がしっとりしてきたことだ。今までスキンケアにはまったく興味が無かったし、今でもあんまり無いのだが、毎日やってると男の私でも肌って変わってくるんだなーと改めて思ったりして。

 天真庵セルフエステもとってもいいので、興味がある方は問い合わせてみてください。

スター混声合唱団

 朝日新聞に「スター混声合唱団」の記事が載っていた。ご存知の方も多いと思う。山田邦子さんが、自身の乳がん闘病をきっかけに作った合唱団だ。先輩の橋本志穂さんや、以前レディス4の司会をしていた川原みなみさんもメンバー。

 記事の最後の署名を見て気付いた。記事を書いた記者の上野創さんは元がん患者だ。上野さんは自身のがん闘病のことを「がんと向き合って」(晶文社)という本に書いている。もともとは朝日新聞の神奈川版に連載されていた。
 私がほぼ日刊イトイ新聞の「智恵の実を食べよう」というイベントでネット中継の司会をしたときに、上野さんは奥さんと一緒に取材に来ていた(奥さんも同僚の新聞記者)。そのときはわからなかったのだが、あとで糸井さんが「あの記者の人、がん患者だったんだよ」と言ったのでわかったのだった。
 上野さんがこのイベントを取材したのは、間違いなく自身ががんを経験しているからだろう。がんに限らず、自分が病気になると世界が変わる。ものの見方が変わる。人生に対する考え方が変わる。

 川原みなみさんも、卵巣がんのためにレディス4を一度降板している。そのことについて川原さんとお話ししたことは無いのだが、病気を理由に番組を降板することがどれだけつらく申し訳ないかは、私も経験があるのでわかるつもりだ。

 私は物心ついたらすでに手術や治療が終わっていたがん患者だが(小児がんだったから)、大人になってから再度手術をすることになって、あらためて自分が生きていることについて考えた。
 私は今、こうして元気で生きているが、自分がいつまで生きられるかはわからないと思っている。書店に行くと自己啓発本が山ほど売られているが、そのほとんどは人生に目標を設定してそれを達成するという内容だ。でも私はそういうものにはまったく関心が持てない。いつまで生きているかわからないのだから目標を設定しようとは思わない。毎日を大事に生きて、その毎日を積み重ねていくことが大事だと考えている。

 後期高齢者医療制度は本当にひどい制度だと思う。長寿医療制度などと名前を変えたって中味は同じだ。もともと社会保障費を大幅に削減したのは小泉さんだが、声高に叫んでいた「痛みを伴う改革」って結局はこういうことだった。
 小泉さんも、その指示を受けてこのような制度を考えつく厚生労働省の官僚も、おそらく大きな病気をしたことが無いのだろう(病気で休職したらエリートコースから外れてしまう)。自分が生きていけるか、生活していけるかということについて不安を覚えたことは無いだろうし、考えたことすら無いから、こういう制度を考えつくことができる。

 もし自分が病気になっていなかったら、バリバリと人生に目標を設定し、目標を達成できない人のことを能力が無いと笑い、派遣社員なんてやってるやつが悪いと当たり前に思っていたかもしれない。そうならなかったのは病気を経験したからなので(もちろん、病気なんかしなくてもこのような偏った物の見方をしない人はたくさんいるけれど)私は病気になったことを悪いことだとは思っていない。病気のおかげでわかったことがたくさんある。

 山田邦子さんもきっとそういう思いなんじゃないかな。毎日再発の不安はあるけれど、それでもやれることをやろうとしたのだと思う。上野さんも、他の誰が記事を書くよりも自分が書いたほうがいいと思って書いたんじゃないだろうか。
 今まで「スター混声合唱団」という名前の「スター」というところが、自分にはまったく縁が無いなと思っていたのだけれど、橋本さんに連絡してお手伝いができるかどうか聞いてみようかな。スターじゃないけど中学・高校と合唱部だったし。

犯人は後輩

 私がフジテレビで研修をしている間に、秋葉原でとんでもないことが起こっていた。

 無差別にトラックで人をはね、あげく次々と人を指した犯人は、私の高校の後輩にあたる。もちろん面識は無いのだが、私の母の情報によるとどうもご近所だから、小学校も同じかもしれない。

 別に高校が同じだからって何もわかりゃしないのだが、ひとつだけ引っかかったことがあった。

 私は高校を卒業したあと、国立国会図書館の職員になった。このことについて、私は学校の誰にも相談をしなかった。今はどうだか知らないが、私がいた頃には学校に進路課という部署があった。といってもそこにいるのは先生で、結局はどの大学に行くべきかを相談するところだったし、大学に進学しない時点で何のアドバイスももらえなかった。
 今になって思えば当たり前だ。先生はおしなべて高校を出たら大学に行き、大学を出たらそのまま先生になっているのだから、それ以外の進路についてアドバイスできるわけがない。ましてや進学校だったら、どこでも同じ状況ではないだろうか。

 犯人(この事件に関しては容疑者とは言いようがない)は、高校を卒業したあと岐阜県の自動車短大に進んだそうだ。この感じがどう伝わるかはわからないが、少なくとも私の感覚では、うちの高校を出て岐阜の自動車短大に行くというのは考えられない。あり得ないと言ってもいい。
 自動車短大という進路を否定するわけではない。ただ、その進路を選ぶのなら、わざわざうちの高校に入る努力をする必要は無かった。私だって相当に珍しい進路の選択だったが、公務員という進路はまだわかってもらいやすかった。でも彼の場合、自動車短大という進路を選んだ時点で、担任や進路課の先生やクラスメイトとは大きな溝ができたはずで、きっとそのこともわかった上で進路を決めたのだと思う。

 大学にも行かない、地元で就職もしない、でも岐阜の自動車短大に進む、という決断をしたのは何故だろう。ここから先は想像だ。私は、とにかく家を出て自立したかったのだと考えている。
 自分には勉強はできないし、もう家にもいたくない。何かしらの技術をつけて、家から離れて一人で生きていくための進路だったのではないだろうか。もはや受験勉強なんてやる気がしない。岐阜の自動車短大だったら、今まで努力してきた範囲のことできっと合格できる。

 一部報道によると、自動車短大を出たあとの進路については「中学校の教員になりたい」と言い、「弘前大学への編入」を希望していたそうだ。彼は本当は大学に行きたかったし、本当は地元にいたかったのだろう。

 残念ながらその希望は叶わない。自動車短大から国立大学に編入するのは大変なことだ。でも家には帰れない。だったら働くしかない。自分にできることは自動車のことだから、自動車関連の就職先を探しただろう。しかし短大卒で行ける自動車関連の就職先は製造ラインであり、現在製造ラインに短大卒で正社員で入るのは難しい。もれなく派遣だ。

 高校受験のための勉強をしていた頃、自分が将来自動車工場で派遣として働くことになるなどとはまったく思っていなかっただろう。人生とはそういうもので、どこで何が起こるかはわからないし、何が起ころうと自分の身に起こったことだから、自分で折り合いをつけていくしかないのだけれど、彼はひたすらに自らの境遇を憎み、呪ったのだろうか。

 私は彼のやったことにはまったく同情できない。最低で最悪だ。でも、自分の人生の中のどこかがちょっと違っていたら、彼と同じような状況に陥ったかもしれないという想像ができた。彼がたまたま高校の後輩だったからだ。彼が特別な思考の持ち主というわけではないし、特殊な精神の持ち主でもないと思う。彼の人生に起こった様々な状況がもたらしたものだ。といっても、繰り返すが最低で最悪の結末で、私は認めないけれど。

 今の世の中、同じような境遇の人はたくさんいる。本当にたくさんいる。そのような人の日々の労働のおかげで車ができ、デジタルカメラができている。私たちが高品質のデジタル製品や車を、国内生産にもかかわらず安く買えるのは、このような働き方をしている人のおかげだ。
 そのことについて、ちょっとだけでも想像してみようと思う。体験していないので実際にはわからないけれど、でも想像してみることって悪くない。

研修の講師

 2週間ぐらい前に、日本テレビの同期から電話があって、民放労連の研修会の講師を頼まれた。講師という柄でもないので断ろうかとも思ったのだが、日にちが迫っていたので「断ると困るんだろうなぁ」と思って、よくわからないまま引き受けた。

 火曜日に打ち合わせをしてちゃんと話を聞いてみたら、なかなかに大変だというのがわかった。フジテレビのスタジオを使って擬似番組を収録するのだが、アナウンサーは司会としてのインタビューの研修と生CMの研修、そして技術スタッフは、ゲストのバンドの歌をカメラマンとして撮影する研修を行う。番組の中で研修を行うというとても実務的な内容だ。
 面白いのは、民放労連主催の研修なので、系列を問わずいろんなところから研修生がやってくるところ。準備をする実行委員も、東京の民放各局の人が集まってやっている。こういう系列を超えた交流はなかなか無い。私が局アナの頃にこんな研修があったら良かったのだが、私がいた局の組合は民放労連に加盟していないのだそうだ。なんでだろう。

 さて私の役目は、番組のゲストとしてインタビューを受けるというもの。ゲストの思い出の品物をきっかけに、その品物にまつわるエピソードを語るという内容だ。全体の講評はテレビ朝日の高井さんが行うので、言ってみればサブ講師というか。
 ただし、3班に分かれて研修を行うので、ランスルー(通しリハーサル)、本番、講評後の短縮バージョンという3回を3班分、つまり9回インタビューに答えることになる。しかも誰かが他の進行を真似したり影響を受けないよう、班によって話す内容も変えなければならない。

 打ち合わせでは、架空の人物のエピソードが3つ用意してあって、もし良ければランスルー用にあと3つ、今泉さん自身のエピソードがあれば、ということだった。でも、架空のエピソードだと結局ウソだし内容も薄くなってしまう。私はアナウンサーとしてそれなりの経験をしているし、アナウンサー以外の仕事も経験しているので、せっかく用意してもらったのだが全部自分のエピソードでやらせてもらうことにした。それなら何を聞かれたって平気だし。

 やってみて感服したのは、高井さんのアドバイスがとても的確で、しかも愛があったこと。技術的なことや言葉遣いはもちろんだが、その人のいいところをどう出すかということをちゃんと考えて講評をなさっていた。私は実務的な部分や心構えの部分のアドバイスを付け加える程度で良かった。

 一度、その地方におじゃまして何人かで飲んだときに来ていた、私よりちょっと年下のアナウンサーが来ていて驚いた。地元でもちゃんとメインの番組を持っているのに、こういう場所に出てくるなんて偉いと思う。ただ1回目をやってみたら、技術的にはとりたてて言うことは無いのだけれど、なんというか「そろそろベテランの域のアナウンサー」というような殻に覆われているような感じがあった。そつがなさすぎるというか、個性が見えないというか。
 高井さんはその殻をこじあけようといろんなアドバイスをしていた。「カメラはついてきてくれるからもっと動いて喋ろう」と言って、実際に動いてみせたり。私も「きょうは上司もいないし、幸いに視聴者もいないんだから、無難にやって帰るなんてもったいない。とにかくやったことがないようなテンションで思い切りやってみたらいいですよ」と、2度目の本番の前に言ったりした。

 他の2人は入社3年目の女性アナウンサーだった。変化はちゃんとあったが、1日で実力がぐんと伸びるというわけではないので、ぱっと見にはどこが変わったかはわからないかもしれない。でも、ベテランの彼女はものすごく変わった。冗談じゃなく、3歳ぐらい若返ったかのように明るくイキイキと喋れるようになった。終わったあと高井さんと目を見合わせて「変わりましたねー!」と言い合ってしまったほどだ。
 そのことに関わっただけでも、やって良かったと思った。高井さんは毎年講師を引き受けているのだが、何故引き受けるかもわかった。目の前で人が変わっていくって喜びだ。

 カメラも、1人につきキー局のベテランのカメラマンがついて、とても丁寧に教えていた。飲み仲間の先輩カメラマンがいたので、あんな人に教えてもらえるなんていいなぁと思った。とても贅沢な研修だ。

 今回の研修のMVPは、研修に参加してくれたタフクッキーズというバンドの皆さんではないだろうか。擬似番組では、地方局では経験できない歌番組のカメラワークを研修するため、番組の中に2曲歌が入っている。ロックとバラードでは撮り方が変わってくるから2曲なのだが、タフクッキーズの皆さんは、カメリハ、ランスルー、本番、講評後短縮バージョンまで入れると8回演奏をしなければならない。それが3班分で、プラスカメラ講師による模範バージョンの2回があったので、1曲につき13回ずつ26回も演奏をするということになるのだ。でも最後まで手を抜かず、研修生のためにちゃんと歌い演奏してくれた。全部が終わったとき、心から拍手をおくった。

 講師による模範バージョンのときはちょっと遊んでも良かったので、自分の出番のときに突然「タフクッキーズってタフですねぇ」と言ったのだが、あとでVTRを見たら、私が「タフクッキーズ」と言った瞬間にセットの反対側にいるタフクッキーズを撮ったカメラがあり、その映像にスイッチャーがスイッチングしていたので笑ってしまった。まったく段取りに無いことを私が勝手にやったのに、ちゃんと対応している。それを研修生に見せられて良かったと思う。あれが生放送だもの。

 朝8時過ぎにフジテレビに入って、終わったのが夜8時過ぎだったので、疲れたといえば疲れたのだが、結局最後まで打ち上げに参加してしまった。実行委員の皆さんに、いい研修にしようという心意気があって、それがとても気に入ってしまったというか。なんというか、心意気を感じると手伝いたくなっちゃうんだよなぁ。
 ぜひ来年もと言われたが、やれるならまたやろうかな。後輩に言っただけのことは、ちゃんと自分もやらなきゃな、という気持ちにさせてくれるし。

キャンプ2日目

 朝はチチに起こされた。起きて顔を洗って歯を磨いて炊事場に行くと、子供達はとっくに起きてすでに朝ごはんを食べ終わっていた。「川の学校」のときは、テントに寝ていても朝6時には子ども達の歓声で起きてしまっていたっけ。

 今回のキャンプは、川の学校では釣りを教えてくれるコマさんが企画して、料理は「あやしい探検隊」の料理長のリンさんがいろいろ持ってきてやってくれた。リンさんは前夜初めて私がアナウンサーだということを知り大変に驚いていた。私はスタッフのたろうに誘われたのだが、もともとはコマさんが「いまちゃんの連絡先を知っている人がいたら誘ってみたら」と言ってくれたのだそうだ。
 川の学校は携帯電話禁止だし、そもそも携帯なんか気にするヒマがない。だから私は誰とも連絡先の交換をしないまま取材を終えてしまった。その後スタッフのやまやんとてんてんの結婚式の二次会で司会のお手伝いをしたことで何人かのメンバーと再会し、ようやく連絡先を交換したのだった。

 あっちゃんやタムは「いまちゃーん、湖に行くよー」と普通に誘ってくれた。あっちゃんやタムにとって私は当たり前に水に入るという認識なのだが、あいにく私は水に入る準備を何もしてきていなかった。残念だが誘いは断り、昼食の準備を手伝うことにした。
 リンさんが用意したメニューは、前の夜がちゃんぽんで朝がじゃーじゃー麺で昼がスパゲティミートソースだった。麺ばかり、と思うかもしれないが、大人数分ごはんを炊くためにはとても大きな鍋が要るので、現実的なチョイスだと思う。

 もうひとつは残り野菜のスープ。言われるままにタマネギを切り、ミートソース作りを始めた。タマネギを飴色になるまで炒めるのだが、私がタマネギをいじらないので周りのお母さんがちょっと心配そうにしていた。なので「最初は水分が出てくるので焦げないんですよ。蒸気が出なくなってきたら焦げ始めるので混ぜます」と説明したら納得していただいた。はなまるの取材のときに堀江先生に教わったことの受け売りなんだけど。

 リンさんは私がアナウンサーだと知って、急に「今泉さんに手伝ってもらって申し訳ないねー」と言ったが、すぐに「でも料理やってるよねぇ?」と質問に変わった。スープの仕上げに溶き卵を入れてかき玉風にしたのだが、そのときの卵の入れ方でわかったのだそうだ。アハハ。

 楽しいキャンプはあっという間に終わり、私とたくやとトップとフィッシュはロープウェーで帰ることにした。たくやは京都から来たし、トップとフィッシュも東京で仕事をしてはいるものの箱根は初めてだというので、途中大涌谷に寄ってみたりしながら帰ってきた。
 もちろんロマンスカーに乗り、ビールを買って乾杯をして新宿に戻ってきた。トップとフィッシュは今回初めて会ったのだけれど、「川の学校」のスタッフをやるような若者だったら初対面だろうが大丈夫。

 帰ってきて改めて思ったのだが、キャンプに来ていた大人は、きっと私以外の全員が野田さんのファンであった。私は別に野田さんのファンというわけではない。取材で「川の学校」に関わったら、そこにとても自由な「野田さん」というおじさんがいたという感じ。
 私にとって野田さんは、作家とかカヌーイストというよりも「野田さん」なのだ。この感じ、川の学校の卒業生ならわかってくれると思うんだけどなぁ。

ハモニカライブからキャンプへ

 「ハモニカライブ」の会場の上野公園水上音楽堂に、私は大きなザックを背負って向かった。ライブのあと、徳島からやってきたチチ、ハハや「川の学校」のスタッフと一緒に、芦ノ湖畔のキャンプ場でキャンプをすることになったのだ。

 キャンプに誘われたときには、日曜はおかおさんの芝居を観ることになっていたし、芦ノ湖までの移動も大変なのであきらめていたのだが、なんとか車に乗れるというのでお願いし、おかおさんの芝居は金曜日に観ることにして、日曜の席はみずえさんに譲った。

 そして始まったハモニカライブだったが、とにもかくにも寒かった。来てくれたお客さんもさぞかし寒かったと思う。野田さんとチチとハハと私が、45分のトークを終えて楽屋に帰ってきてまず言ったのは「寒かった~!」ということであった。それを聞いていた、次に登場する夢枕獏さんが「え、そんなに寒いの?」と言ってもう1枚パーカーを羽織っていたが正解だと思う。

 そして押しかけ司会は、やって良かったなと思った。野田さんもチチも、川やダムや「川の学校」についてなら一晩中語れる。私はどっちかというと、話を時間内におさめるストッパーだろうと思ったが、案の定野田さんがどんどん話し始めてしまって、「川の学校」の話ではなくなってしまった。
 その話も面白いし聞きごたえもあるから、話を止めるのは申し訳なかったのだが、話が川からダムに移り、さらに相模湾になったところで「もはや川じゃないな」と思って「野田さんすみません…やっぱり野田さんだけで40分差し上げれば良かった」と言って話を戻したのであった。
 あとで「川の学校」のスタッフのたくやに「今ちゃんあれはナイスストッパーだった」と言われたのでまぁ良かった。野田さんも怒ってなかったし。

 そういえば楽屋に横里さんが来たので驚いた。今度夢枕獏さんの特集をするので顔を出したのだそうだ。「久しぶり~!」と感激しながら話をしていたら獏さんが「知り合いなの?」と横里さんに尋ねた。横里さんは「はい、僕たち前一緒にクラシックバレエをやっていて、一緒に発表会に出たんです」と説明してその場はおさまったのだが、後でふと、まだ獏さんに自己紹介をしていなかったのでうっかりバレエダンサーだと誤解されないかと思って改めてご挨拶をした。どう考えても間違えるはずはないんだけど。

 ハモニカライブの最後にはオークションが行われる。いつもモンベルの社長の辰野さんが司会をするのだが、今回は辰野さんが多忙で帰らなければならないということで私がやることになった。
 事前に、寒いしもともとそんなに値をつりあげるつもりもないので、早めに切り上げて下さいと言われていた。私もそのつもりでマイクを持ったのだが、オークションの司会は独特だった。値段が上がっていくのが面白くてなんとなく値をつりあげたくなるのだ。「他にありませんか、いいですか、いいんですね」などと言っていると声がかかる、あの興奮をどう言ったらいいのか。

 それでもまぁ、常識的な値段で楽しくオークションを終えて、箱根へと向かった。私が急にお願いしたので8人乗りの車に8人プラス荷物ということになって窮屈で申し訳なかったが、箱根には2年前のスタッフや子供も来ているので楽しみだった。

 どういう状況かがよくわからなかったのでテントとシュラフを持っていったのだが、着いてみたらバンガローに案内された。しかもバンガローにはベッドがあって、重い荷物を背負ってきた私はとても力が抜けた。急に来られなくなった人が何人もいたそうだ。まぁこの方が快適だし、と気を取り直して炊事場へ。

 あっちゃんとタムという2人が家族と一緒に来ていた。2人とも神奈川から飛行機に乗って吉野川に通っていたのだ。それからスタッフのたろう、ちゃむ、シュウにも久し振りに会った。たろうは千葉、ちゃむは長野、シュウは静岡から通っていた。みんな偉いなぁ。

 あっちゃんは中3、タムは中2になっていた。2人ともすっかり大きくなっていて、タムには背を越されてしまった。声も低くなっていて、2年でこんなに成長するのかーと感慨深いものがあった。

 私はスタッフではなく取材でおじゃまして、何を手伝うというよりもひたすら子どもたちと遊んでいてみんなと仲良くなった。だから私とあっちゃんやタムの関係は、川の学校仲間でありお友達だ。
 だからあっちゃんもタムも私に敬語など使わないし、私もそれで構わないのだが、タムのお母さんが「そんな失礼な口のきき方しないの」とタムをたしなめた。それで「いいんですよ、私たち年齢関係なく仲間で友達ですから」とお母さんに言ったのだが、ふとタムのお父さんやお母さんはいくつだろうと思ってこっそりタムに尋ねてみた。

 そして驚いた。タムのお父さんは38歳、お母さんは37歳であった。そんな夫婦の14歳の子供の友達である私の年齢は39歳。がーん。

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