報道のこと
「チャンネルはそのまま!」(佐々木倫子/小学館)は、北海道のテレビ局の報道部に配属された雪丸花子が、配属初日の昼ニュースで、なぜか中継をやる羽目になるところから物語がスタートする。
普通そんなことはまず無いが、まったく無いとも言い切れないのが報道の現場だ。フジテレビの開局50周年特番を見ていたのだが、あの御巣鷹山日航機墜落事件の現場で、生存者の発見をいち早く生中継で伝えた記者は、それまでに行ったのは中古車フェアの取材だけという新人記者だったのだそうだ。何もわからないから、ただ言われるままにやっていたら、信じられないような奇跡が続いてスクープにつながった。
思えば私も、報道部配属初日で大事件の現場に行くことになりそうだったのだ。忘れもしない91年6月3日。春から噴火を続けていた雲仙普賢岳で、大火砕流が起こった。火砕流は真下にいた報道関係者や消防団員や警察官、さらには取材に同行していたタクシーの運転手などを巻き込み、死者・行方不明者は43人にのぼった。
いちばん近い系列局である福岡からも、すぐに応援の記者が現地へと向かった。夜になって被害の大きさが明らかになるにつれ、さらに応援の記者を派遣することになって「おい新人一人行くぞ」ということになった、のだそうだ。
なぜ伝聞の形かというと、私はちょうどトイレに行っていてその場にいなかったからだ。
トイレから戻ると何やら部屋がバタバタしていて、私は慌てて同期のアナウンサーに「どうしたの?」と尋ねた。彼女は「どこ行ってたのー? 新人も行くって話になって、じゃあ五十音順で今泉ってことになったんだけどいないから、結局大鶴くんが行くことになったんだよ」と言った。
残念な思いが半分、申し訳ない思いが半分であった。行ってみたいけれど、言葉も地理もわからないし、重いものが持てるわけでもないし、きっと何もできなかっただろう。大鶴くんは2日ほどで戻ってきたが、やはり「なんもできんやった」と言っていた。
それから5年後の96年6月13日。「ズームイン!朝」の中継を終えて、取材のため新幹線で小倉へと向かい、先に行っていたスタッフと駅で合流したところで「すぐ戻ってください」と言われた。福岡空港でガルーダ・インドネシア航空機が離陸に失敗しオーバーランするという大事故が起きていた。
すぐに新幹線で戻り、あとは夕方ニュースが無事に終わるまで、乗客名簿を整理する作業に追われた。みんな外に出ていて、次々に映像や原稿を送ってくるので、こういうときは中で情報を整理する人間がいないと回らない。
やっと夕方ニュースが終わってひと息ついたと思ったら、制作のスタッフが「これからトメさんが福岡に来て、明日のズームインは福岡空港から特番です」と言われてひっくり返った。また一からVTRをまとめなければならない。しかも全編福岡からの中継だ。
夜中、必死に編集するディレクターの後ろで、一緒に映像を選びながら同時進行で原稿を書いていたら、あっという間に朝になってしまった。昨日の朝4時から一睡もしていない。
私は先に現場に行かなければならないので、社を出て空港近くの中継現場に向かい、草むらの中にしゃがんで、薄暗い朝日の下で原稿をまとめた。トメさんはなんだかんだいっても頼りになる人で、私はなんとか1時間半を乗り切った。そして結局、まる2日一睡もしなかった。5年経って、ようやくこういうことができるようになったわけだ。
もちろんその頃は、5年後に自分が東京でニュースキャスターをやっていて、9月11日に旅客機がニューヨークのビルに突っ込み、それから3か月間、ひたすらにテロについて伝え続けることになるだなんて、考えてもいなかった。自分がこの目でちゃんと見たわけでもないし、ましてやいったい世界に何が起こっているのかもわからないのに、洪水のように溢れる情報を、ただただ必死に伝え続けるしかなかった。
その番組が終わったとき、私はワイドショーではなく「はなまるマーケット」がやりたいと思ったのだ。そのことはこないだ書いたけれど。
その日ニュースが伝える事件と、その日自分が食べる晩御飯のメニューに、優劣はないと思っている。むしろ、事件は関係のないことだから、大事なのは晩御飯のメニューという方が普通だろう。だから私は、ここ数年、局は違えど生活情報番組をやれていることについてはありがたく思っている。
でも、きょうの特番を見ていて、報道という仕事にたくさんのことを教えてもらったなぁとしみじみ思った。今の私があるのは報道のおかげだ。そのことがわかるのは、報道とは真逆に見える生活情報番組をやることができたからだということにも気付いた。
なんだか長くなってしまったが、結局私にできることは、そこがどこでも、きょう伝えたいことが伝わるように働くことだな。そこだけはずっと変わらない。
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