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2010年1月

わすれもの

このところ
ずっと何かが頭にひっかかっていた。
何か大事な予定があったような気がするというか。

といっても
手帳には何も書かれていないし
仕事の予定ではないのはわかっている。

前回のブログで
学生時代のディスコの話を書いたが、
書き終わったところで
「はっ!」と思い出した。

大学時代のサークルの仲間で集まろう、というメールが
ちょっと前に届いていた。
ちょうどその頃バタバタしていたので
スケジュールがわかったところで返信しようと思いつつ
すっかり忘れてしまっていた。

慌てて携帯のメールを読み返した。
サークルの飲み会は
まさに思い出したその夜に開かれていた。
でも深夜1時を過ぎていたから
とっくに終わっていた。

なんで前の日の夜に思い出さなかったんだろう。
行きたかったし会いたかったのに。
正直落ち込んだ。夜中に。

こういう仕事に就いてみてわかったことがある。
なんとなく「忙しいんだろうなぁ」と思われて
連絡が来なくなるのだ。

だからこそ
自分で連絡を取らなければならない。
今回はちゃんと返事をするべきだった。

もう自分を信用しないことにする。
なんでも手帳に書いて
常に見返すことにする。
忘れない努力はできないけど
書き残す努力はできる。

今からこんなだったら
今のうちに書き残す癖をつけておかないと
きっと全部忘れちゃうもんね。


アラフォー ユーロビート

テレビから流れてきた曲に「あ、懐かしい」と反応してしまった。
そんなCDが売られるということは
CDの作り手に同世代の人がいるということだろう。

いま41歳。
まさにアラフォーなので
ユーロビートで踊っていた世代だ。
そもそも
「ユーロビート」っていう言葉自体
上に5年ずれても下に5年ずれても
ピンとこないんじゃないかな。

「今泉さんも昔クラブとか行ってたんですか」と
若いスタッフに聞かれたことがあるけれど、
その頃はまだクラブじゃなくてディスコだった。
バブルがはじける直前だから、ディスコのほんとに最後の時代。

ディスコ、っていう言葉を
口にしたり文字にしたりするだけで
なんだか気恥ずかしい思いがある。
そういえばperfumeには
ワンルームディスコとかチョコレイトディスコという曲があるけれど
あれって
古くて新しい、みたいなことなんだろうか。

公務員をしながら夜に大学に行っていた、という話をすると
「苦労したんですねぇ」と言われてしまうのだが
実のところそんなに苦労した記憶はない。

青山学院大学の第二部は
4年間青山キャンパスで授業が受けられるので、
夜9時に授業が終わったら毎日渋谷に直行していた。
言い換えると
ほぼ毎日飲んでいた。

居酒屋の方が好きで
ディスコはみんなが行くなら行く、ってな感じだったんだけれど、
それでも
ハロウィンの時期には
わざわざ仮装して
六本木のディスコをはしごしたりしたっけなぁ。
コックさんの格好をして
フライ返しの柄の鍋つかみを左手にはめたりして。

格好がダサい(当時はそういう言い方をした)男子は
ディスコに入店させてもらえなかったのだけれど、
ハロウィンの時期は
面白い仮装をしていればわりと平気だったのだ。

若かったし
身長は今と変わらず低かったので
知らないお姉さんに「カワイイ~」とか言われて
お立ち台にひっぱり上げられたりした。
でも
当時求められている男は
そういうカワイイ男ではなかったので
決してモテているわけじゃなかった。


ディスコに通っていた頃の自分を
バカだったなーとは思うけれど
否定はしない。
そんな時代だったんだから
時代の端っこぐらいは味わっておいて良かった。

あんな時代、二度とやってこないだろうから。




携帯が使いこなせない

今使っている携帯電話はとても薄い。買い替えるたびに薄くなっている。

そして取扱説明書はどんどん厚くなり、下手すりゃ2冊入っていたりする。
しかもものすごーく字が小さい。

もはや携帯は、話すためのものというよりは
メールのやりとりをすることが主になったし、
手軽に画像が撮れて
テレビが見られて録画もできて
音楽を聴くこともできる
ものすごい機械になった。

説明書がぶ厚くなるのも仕方ない。

携帯で撮った画像を待ち受け画面にしようと
設定をしてみるのだが、
どうしても
縦に撮った画像が横になって表示されてしまう。
普通に見るときは縦に回転して表示できるのに
待ち受けだと横になるのだ。

なぜだろうと取扱説明書を見てみたがわからず、
カメラの使い方のところから
丹念に読んでみてもわからない。

しばらくカメラ機能をいじっていて
やっとわかった。

カメラの機能は
画像を撮る機能と壁紙を撮る機能に分かれていて、
壁紙の方じゃないと
縦に表示できないのだった。
単純に画像のサイズの違いかと思っていたんだけど。

ああややこしい。

そういえば
つぎ子さんの携帯の待ち受けは
どこかのバーのママに撮ってもらった
自分の画像だった。
待ち受けが自分の画像って。

翌日、自分の画像を
夜中1時過ぎに小朝師匠に送ってビックリされた、というメールが
つぎ子さんから届いたのだが、
その私宛のメールにも同じ画像が添付されていた。
待ち受けにしろということだろうか。
しないけど。
アハハハハ。

そういえば
飲み会でこの話をしていたとき
おかみさんが
「この子は昔から写真映りだけはいいのよねぇ」
と言ったので
「おかみさん、問題はそこじゃないと思います」と
思わず突っ込んでしまった。

待ち受けが自分の画像だという人はいますかねぇ。
誰かとじゃなく自分ひとりの画像。
そんなあなたは
間違いなく自分が好きでしょう。


三遊亭王楽ひとり会

21日の「レディス4」のゲストは、三遊亭好楽さんと息子の三遊亭王楽さん。番組の最後に、王楽さんが翌日独演会をやると告知したのだが、スケジュールが空いたのでおじゃますることにした。

王楽さんは去年の10月真打ちに昇進した。そのひと月後に円楽さんが亡くなったので、王楽さんが円楽さんの最後の弟子ということになった。お父さんの好楽さんも円楽さんの弟子だったので、2人は兄弟子と弟弟子ということになる。

落語に詳しいわけではないが、落語ってほんとうに人柄が出る。番組でお会いした王楽さんはイケメンでとても優しい雰囲気の方だったが、落語にも優しさや人柄の良さがそのまんま出ていた。普段ゲストの方の公演などにおじゃますることはなかなかないのだけれど、おじゃましてよかった。

終わったあと打ち上げに誘っていただいた。実はこの日、太神楽(傘の上で升や湯飲みを回したりする芸。もちろん他にも様々な芸があるけれど。目の前でちゃんと見たのは初めてで、感動してしまった)の鏡味仙志郎さんが出演していたのだが、仙志郎さんの奥さんが私の知っている人だというのが、番組中の王楽さんとの雑談で発覚し、紹介していただいたのだった。好楽さん一家や仙志郎さんとは家が近所だというのがわかり、飲み屋情報をいろいろと教えてもらった。

一次会の途中で好楽さんやおかみさんも合流し、閉店時間になったので二次会に移ってふと周りを見たら、私以外はほぼ身内のような方ばかりだった。

ここでつぎ子パワー大爆発。
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右が王楽さんで、左が好楽さんの次女(王楽さんの姉)のつぎ子さん。雑司ヶ谷でたいやき屋さんをやっている。

好楽さんには去年、つぎ子さんと一緒に「レディス4」に出ていただいたのだが、とにかくすごかった。言ってみればいわゆるシロウトさんなのだが、生まれて初めて生放送に出たのに一切緊張することなく、普段通りに言いたいことを言って爆笑をとり、終わったらプロデューサーに「またよろしくお願いします」と言って帰っていった。以来番組では「史上最強のシロウト」ということになっている。

後日、メイク室で一緒になった東貴博さんに「あいつすごいでしょー?」と言われたり、徹子の部屋コンサートでご一緒した林家たい平さんにも「じっこちゃん(つぎ子さんのあだ名)は上も下も関係無いからねぇ」と言われたので、つぎ子さんのすごさは有名だというのがわかった。

早い話が誰にもまったく物おじしない。そしてどうにも憎めない。

好楽さんに子供時代からの様々なつぎ子さんエピソードを教えてもらい、それがあまりにも面白くてずーっと大笑いしていた。何度ふきんで涙を拭ったことか。おかみさんに「今泉さんのお酒が減ってない」と言われたが、笑ってばかりで飲む暇がないのだ。そういえばおかみさんもかなり面白かった。

間違いなく面白かった飲み会ランキングベスト1。帰りに「いつもあんなに面白かったら大変ですね」と聞いたら、皆さん「いつもだから慣れましたねぇ」だって。毎日あんな会があったら死んじゃう。

誰がやってるんだろう

友人が教えてくれた。

ウィキペディアの記述の卒業小学校が間違っているという話を書いたら
今はもう修正されているそうだ。

ふーん。

訂正した人は
最初に間違いを書いた人なのだろうか。
それとも
たまたまこのブログを読んで訂正してくれたのだろうか。

あ、そういえば。

自分でチェックしていたわけじゃないから
詳細はわからないのだけれど、
ウィキペディアの自分の項目には
以前「フィギュアスケートに詳しい」みたいなことが書かれていて、
後日その項目に「要出典」みたいなことが
付け加えられていたそうだ。
今泉はスケートに詳しい、と書いたら
その根拠を示せ、みたいなクレームがついたようなことだと思う。
今はもう書かれていないから
詳細はわからないのだけれど。

フィギュアスケートの観戦歴はもう30年ぐらいで
自分でもちょっと滑っていて
昔は1回転のジャンプなら4種類は跳べた。
ルッツはたった1回転でも難しかったなぁ。

だからエッジの使い分けは
知識だけではなく体でわかっている。
でも選手でもジャッジでもなかったから
知っていることは知っているし
知らないことは知らないという
それだけのこと。

それだけのことについて
勝手に書かれて勝手にクレームがつけられてもなぁ。

自分のことが書かれているのに
そのことについて自分が知らないのは
気持ちが悪いような気もする。
でも
内容自体はどうでもいいレベルのことだから
全体としてはまぁどうでもいいか。

なんというか、
そんなに気にしていただかなくていいです、って感じ(笑)。

「やねだん」のDVD

「THE NEWS」を見られなかった人には
「やねだん」が何のことだかわからないだろう。

鹿児島の南日本放送で制作されたドキュメンタリーで
取材したのは
福岡放送時代に一緒にキャスターをしていた
山縣由美子さん。

このドキュメンタリーは
数々の賞を獲得して高く評価されている。


石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞
「地方の時代」映像祭2008 優秀賞
ギャラクシー賞 テレビ部門 選奨
日韓中テレビ制作者フォ-ラム 第1回番組コンクール 最優秀グランプリ



番組では
鹿児島県鹿屋市の柳谷集落、通称「やねだん」に暮らす人々が
行政に頼らず
自分たちの力で地域を元気にしていく様子を
丹念に追いかけている。
こんなことが本当に起こるのか、ということが
次から次に起こり、
登場する人は
老若男女問わず温かく、
人が亡くなり、新しい命が産まれ、
人と人との縁がつながっていく。

短縮版が
先日TBS「THE NEWS」で放送されたわけだが、
もともとの番組はDVD化されていて
南日本放送のサイトで購入することができる。

一人とか、一家族を追いかけたものならともかく、
一地域のたくさんの人を取材したドキュメンタリーがDVD化されるだなんて
聞いたことがない。
当然だが
登場する人に許諾を取らなければならないからだ。

それができたのは、やねだんの人々が
この番組や、取材した山縣さんはじめスタッフを
信頼して認めてくれたからだ。
逆の言い方をすれば、
地域の人が信頼してくれたからこそ
すばらしい番組ができた。
だから、
売上の一部は、やねだんの自主財源として還元される。
これまた聞いたことがないが
取材させていただいたことに対するお礼として
テレビができるこれ以上のことはないと思う。

ところで南日本放送のサイトに、
フジテレビ編成制作局知財情報センター調査部というところが
発行している
「aura」という雑誌に載った(未発売)
山縣さんのインタビュー記事があった。

フジテレビの人が他系列の山縣さんを取材するのも
南日本放送がその記事を載せるのも
めったにないことだと思う。
でも、いい番組だから取材をして、
いい記事だったから自社のホームページで紹介しただけ。
なんていいことだろう。

お金の話にはちっとも興味がないのだけれど
こういう心とか気持ちの話は
出会うたびに元気をもらえるので大好きだ。


お金は余るほどあるが、周りに人の心や気持ちや志が無い。
お金はそんなに無いけれど、人の想いや温かさに囲まれている。


どっちがいいかと考えるまでもない。
後者の暮らしが理想だな。



アメブロの「やねだん」の話を一部訂正

引っ越し前のアメブロに書いた「やねだん」の話を一部書き直しました。
カットしたのは下の一文ですが、元の文章はこちらなので両方読んでいただけたら。

もし「THE NEWS」の打ち切りが決まっていなかったら、これだけ思い切ったことはできなかったかもしれない。

これは私が憶測で書いたことだ。70分のニュース番組のうち30分を地方局のドキュメンタリーに費やすだなんて、私がそう思ってしまうほどにあり得ないことだから。でも、これは事実ではなかった。本当に申し訳ない。

このブログを「THE NEWS」の編集長が見てくださったそうだ。山縣さんを通じて、私が書いたことに対する丁寧な感謝の思いとともに、今回の「やねだん」の放送は、番組打ち切りのことが決まる前から、ただ単純に、でも絶対に放送したいと考えて決断したことを伝えていただいた。

この仕事をしていて、どんな偉い肩書の人に会うより、どんな有名な人に会うより嬉しいことがある。それは「志のある人」に出会うことだ。私はこの編集長さんにはお会いしていないけれど、放送を見ただけで「伝えたいこと、伝えるべきことをできる限り伝える」という志がなければこんなことはできないことは心の底からわかった。

だから、VTRのあとスタジオで喋っている山縣さんを見て泣けてきたのだ。ああ、志のある人との、心が通じる出会いがあって、やっと願いがかなってたくさんの人に見てもらえて、本当に良かったなぁ、と。

私が初めて、自分で企画し自分で取材して作ったドキュメンタリーは、佐賀女子高校新体操部のインターハイ8連覇までを追いかけるものだった。必死で作って、深夜に放送して、それで終わりかと思ったら番組モニターの評価が高くて昼間に再放送になり、結局は短縮版を自分で編集しなおして「ズームイン!朝」で自ら全国に放送することができた。

そのときにはわかっていなかったが、これはとてもとても幸せなことだった。自分が作った番組が全国放送される機会など、地方局の記者やディレクターにはなかなかやってこない。やってきたとしても、深夜などのあまり見てもらえない時間帯だ。

今回のように、夕方のニュースの枠を30分以上も使って放送してもらえるなんて、地方局の人間にとっては考えられないことだ。それがどれだけ珍しくて幸せなことか、今ならとてもよくわかる。

「やねだん」は、全国の人のみならず、TBS系列の地方局の人たちも見たはずだ。そしてきっと、私と同じように驚き、番組が19時台から撤退することが決まったから、こんな思い切ったことができたのだろうと考えたと思う。

繰り返し訂正する。そういうことではなかった。

「THE NEWS」は時間帯が変わっても番組が終わるわけではないし、TBSの報道の現場にはとても高い志を持つ人がいる。今回のことで、系列局にすばらしい番組や素材があるということをキー局の人が知り、系列局の人が「いいものを作れば全国の人に見てもらえる機会はある」ということを知ったとしたならば、それは本当に素晴らしいことだ。これからの放送と報道の未来を考えても、絶対にいいことだ。

いま、病院にとってのやっかいものは小児科や救急だ。人手も手間も必要でお金がかかる割に、収入は少なく、勤務が過酷で医師がやってこない。テレビの世界では報道がまさにそんな感じだ。人手と手間がかかる割に儲からない。

だからといって小児科や救急をやめてはいけないし、テレビ局は報道をやめてはいけない。お金が無いからといってテレビ局が報道をやめたり手を抜いたりするのは、新聞社が新聞をやめるようなことだと思う。

病院にしろテレビ局にしろ、過酷な現場は志を持って働いている人がいて成り立っている。JALだって、これだけ騒がれながらも、現場の人は毎日、人の命を預かって懸命に働いているはずだ。

そのことを忘れちゃいけない。私達も、企業の経営者も、そして株主という名のもとに会社のことより自分の利益のみを追求する人達も。

「やねだん」の話を一部訂正

 引っ越ししましたが「やねだん」の話を一部書き直しました。具体的にはこの部分をカット。

 もし「THE NEWS」の打ち切りが決まっていなかったら、これだけ思い切ったことはできなかったかもしれない。

 これは私が憶測で書いたことだ。70分のニュース番組のうち30分を地方局のドキュメンタリーに費やすだなんて、私がそう思ってしまうほどにあり得ないことだから。でも、これは事実ではなかった。本当に申し訳ない。

 このブログを「THE NEWS」の編集長が見てくださったそうだ。山縣さんを通じて、私が書いたことに対する丁寧な感謝の思いとともに、今回の「やねだん」の放送は、番組打ち切りのことが決まる前から、ただ単純に、でも絶対に放送したいと考えて決断したことを伝えていただいた。

 この仕事をしていて、どんな偉い肩書の人に会うより、どんな有名な人に会うより嬉しいことがある。それは「志のある人」に出会うことだ。私はこの編集長さんにはお会いしていないけれど、放送を見ただけで「伝えたいこと、伝えるべきことをできる限り伝える」という志がなければこんなことはできないことは心の底からわかった。
 だから、VTRのあとスタジオで喋っている山縣さんを見て泣けてきたのだ。ああ、志のある人との、心が通じる出会いがあって、やっと願いがかなってたくさんの人に見てもらえて、本当に良かったなぁ、と。

 私が初めて、自分で企画し自分で取材して作ったドキュメンタリーは、佐賀女子高校新体操部のインターハイ8連覇までを追いかけるものだった。必死で作って、深夜に放送して、それで終わりかと思ったら番組モニターの評価が高くて昼間に再放送になり、結局は短縮版を自分で編集しなおして「ズームイン!朝」で自ら全国に放送することができた。

 そのときにはわかっていなかったが、これはとてもとても幸せなことだった。自分が作った番組が全国放送される機会など、地方局の記者やディレクターにはなかなかやってこない。やってきたとしても、深夜などのあまり見てもらえない時間帯だ。
 今回のように、夕方のニュースの枠を30分以上も使って放送してもらえるなんて、地方局の人間にとっては考えられないことだ。それがどれだけ珍しくて幸せなことか、今ならとてもよくわかる。

 「やねだん」は、全国の人のみならず、TBS系列の地方局の人たちも見たはずだ。そしてきっと、私と同じように驚き、番組が19時台から撤退することが決まったから、こんな思い切ったことができたのだろうと考えたと思う。

 繰り返し訂正する。そういうことではなかった。

 「THE NEWS」は時間帯が変わっても番組が終わるわけではないし、TBSの報道の現場にはとても高い志を持つ人がいる。今回のことで、系列局にすばらしい番組や素材があるということをキー局の人が知り、系列局の人が「いいものを作れば全国の人に見てもらえる機会はある」ということを知ったとしたならば、それは本当に素晴らしいことだ。これからの放送と報道の未来を考えても、絶対にいいことだ。

 いま、病院にとってのやっかいものは小児科や救急だ。人手も手間も必要でお金がかかる割に、収入は少なく、勤務が過酷で医師がやってこない。テレビの世界では報道がまさにそんな感じだ。人手と手間がかかる割に儲からない。

 だからといって小児科や救急をやめてはいけないし、テレビ局は報道をやめてはいけない。お金が無いからといってテレビ局が報道をやめたり手を抜いたりするのは、新聞社が新聞をやめるようなことだと思う。

 病院にしろテレビ局にしろ、過酷な現場は志を持って働いている人がいて成り立っている。JALだって、これだけ騒がれながらも、現場の人は毎日、人の命を預かって懸命に働いているはずだ。そのことを忘れちゃいけない。私達も、企業の経営者も、そして株主という名のもとに会社のことより自分の利益のみを追求する人達も。

自分が知らない自分の経歴

知人がこんなサイトを教えてくれた。
プロフィールを確認するために私の名前で検索したら
出てきたのだそうだ。

基本的には合っているんだけれど、これは驚いた。

著書「たすきがくれた奇跡」

だって。
そんな本書いてないし、大体にして本出したことないし。

自分のことなのだけれど大笑いさせてもらった。
検索してみたら本は実在した。
豊川工業高校の陸上部の物語だそうだ。

そういえば、ウィキペディアで私を検索すると

「青森市立沖舘小学校、青森市立沖舘中学校卒業」

と書かれているのだが、
卒業したのは青森市立佃小学校だ。
卒業後は佃中学校に入学し、
1年の3学期から沖館中学校に転校して卒業した。

赤の他人の私のことについて
わざわざ投稿してくれた人がいるのは
ありがたいといえばありがたいのだが、
それが間違っているってのは
微妙な感じ。

かといって
自分の出身小学校について
わざわざ訂正するのも面倒なので
する気無し。

まぁ、このことによって
ウィキペディアは
そもそもそんな感じだというのがなんとなく理解できた。
だから
他の事柄についての記述も
あくまでも参考にしかしない。

ネットの情報とか、ネットの意見とか
大体こんな感じだと思って付き合うと
日々の暮らしにはほとんど影響が無いですよ。
誰に言ってんだか。


上海あれこれ

上海初日の夜は、いま上海で話題だというエンターテインメントを観に行った。

ERA-時空之旅
005












JTBパブリッシング「タビトモ上海」によると。

伝統的な雑技に、西洋のショーやミュージカルの要素を取り入れ、精巧な舞台装置やハイテク映像技術、迫力の音響などで仕上げた「スーパーマルチメディア幻想劇」

…だそうだ。

ネットで予約できるとのことだったのでやってみた。英語のサイトから席を確保し、ネットで支払うというところをクリックしたら、中国の銀行のカードばかりが出てきた。前の画面に戻ったが、席はすでに確保したという表示が出るのみ。

仕方がないので「当日直接支払うので席をとっておいてほしい」というような英文メールを出してみたら、ちゃんと「席はあるので窓口でお待ちしています」という返事が2通も届いた。

ということで行ってみたらちゃんと席はあった。よくわからないのでいちばん高い席にしたが、そこは一応VIP席ということで、入口が別で係員にチケットを確認された。もらったチケットには「2排1座」と書いてある。2列目の1番ということかと思い、前から2列目の通路側の席に座りつつ番号を確認しようとしたら、係員がやってきて、いちばん真ん中の席に案内してくれた。

中国全部の劇場がそうかはわからないが、この劇場では

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のように、1座はいちばん真ん中の席だった。劇場はすり鉢状でステージが低いので、前から2列目の真ん中というのは、まさにど真ん中の席。わざわざメールを出した甲斐があったのかもしれない。「この日本人はそこまでして観たいのかねぇ」と思ってもらったとか。

さて内容だが。

出演者はみな若く、髪を染めたりワックスで立ち上げたりしていて日本の男の子と変わらないように見える。踊りや盛り上げ方は雑技というよりもヒップホップのノリに近い。やっていることは雑技の難しい演目なのだが、良くも悪くもノリが軽い。重みが無いというか。

ERAはディレクターも振付師も作曲家も中国人ではなく西洋人だそうだが、たぶん西洋人が中国と西洋の要素を混ぜてみたらこんな感じになっちゃった、ということなんじゃないかな。シルク・ドゥ・ソレイユをやろうとして、結果としてマッスルミュージカルになっちゃったような。別にマッスルミュージカルをどうのこうのと言うつもりはない。芸術に重きを置くのか、技術に重きを置くのかの違いで、ERAは大衆的な演出だということ。

そうはいってもやはり技はすごいのでちゃんと楽しんだ。最後の、金属の大きな球の中を数台のバイクが走る技は、初めて生で見てやはり驚いたし。
 
 
ERAの会場「上海馬戯城」は、地下鉄1号線の上海馬戯城駅のすぐそばにある。上海の地下鉄駅のホームで見た光景。
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電車に乗る人は、まずドアの両サイドに立って、中の人が降りるのを待ってから乗りましょう、という意味なのだが、わざわざこんな矢印を書かなければならないほどに誰もこれを守らない。とにかく我先にと乗り込んでくる。

朝と夕方は日本のラッシュ時並みに混む。そんなときでもホームで待つ人はドアの前に立ち、開くなり乗り込む。夫婦と子供連れのうちお母さんだけが降りそこねて「アー!」と叫びつつドアが閉まるのを見た。降りそこねたお母さんを見ていた私はつまり乗りそこねたんだけど。

逆に混んでいる車内では、駅に着く前にドアのところに移動しておくことがルールらしい。満員の車内をかき分けてドアに近づいてきた若い男の子が、ドアのそばに立っていた私に、たぶん場所を代わるようにと言ったのだが、自分も次の駅で降りるので、ドアの外を指さして「降りるよ」という動作をしたらわかってくれた。
 
 
守らないといえば信号。車は右側通行だが、歩行者信号が青でも、対抗する左折の車がどんどん横断歩道に入ってくるのでとても怖い。かと思うと歩行者の方も、赤だろうと隙あらば渡ろうとするし、信号が無くてもどんどん道を渡る。上海では交通事故なんてニュースにならないのかもしれない。

初日はとにかく怖くて、信号が青になったらすぐ、他の人たちにくっついて固まりで渡っていた。でも3日目には平気で渡れるようになった。慣れってこわい。

自分の日ごろのルールが通用しないところに行くって、いつもなら決して感じないような緊張感や恐怖があって、とても新鮮。

ハブ空港

上海の国際空港は浦東国際空港。成田からの直行便が発着する。上海の市街までバスやタクシーでは1時間ほどかかるが、地下鉄の龍陽路駅まで直行のリニアモーターカーがある。
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所要時間はたったの8分。龍陽路駅から地下鉄に乗り換えて、上海の中心部まで15分ほど。乗り換えがちょっと不便といえば不便だが、成田に移動するよりはずっとずっとましだ。

ちなみにこのリニアモーターカー、最高時速が430km。
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ほんの数分で最高速度に達するのだが、周りに何もないのでなかなか早さが実感できない。龍陽路駅につくちょっと手前でビルや街並みが見えてきて、速度がゆっくりになったので「もう着くんだな」と思って速度表示を見たらまだ130kmもあった。飛行機で空を飛んでいても速さが実感できないのと同じ。

上海にはもうひとつ、国内線が主体の虹橋空港がある。羽田との定期チャーター便はこちらに発着する。虹橋空港から市街まではバスやタクシーで30分、浦東空港とはノンストップバスで20分ほど。
 
 
前原国土交通大臣が「羽田空港のハブ化」について発言したら、あちらこちらから様々な意見が出た。でもこうして海外の大きな空港に来ると、成田のハブ化とか羽田のハブ化とか、もうちゃんちゃらおかしいという気になる。

ハブ空港というのは、その空港を拠点にして他空港へ乗り継ぐための空港。ハブというのは自転車の車輪の真ん中で、そこから四方に出ているのがスポーク。乗り継ぎ空港を集約することで効率的に運行が図れる。

日本国内なら羽田がハブ空港だ。例えば秋田から鹿児島に行く場合、直行便はないが、羽田で乗り継ぐことができる。日本のほとんどの空港は羽田便があるので、羽田なら国内のたいていの空港には行ける。しかし羽田から海外への便は、今のところ限られている。大半の国際線は成田発着なので、羽田は国際線のハブ空港ではない。

日本の地方都市にとっての国際線のハブ空港は、事実上韓国の仁川国際空港になっている。

大韓航空が乗り入れている日本の空港は、東京と大阪以外にも札幌、函館、青森、秋田、新潟、小松、静岡、名古屋、岡山、福岡、大分、長崎、鹿児島がある。アシアナ航空は、東京と大阪以外に旭川、仙台、福島、富山、静岡、名古屋、広島、米子、高松、松山、福岡、熊本、宮崎、沖縄に直行便がある。

こうやって改めて並べてみると、両方で日本のほぼ全ての地域をカバーしているのがわかる。それに対して、成田への直行便がある国内の空港は、東京、大阪、札幌、福岡、広島、那覇の6空港に過ぎない。

地方の人にとっては、国内線で羽田に行き、わざわざ成田へ移動して国際線に乗るよりも、地元の空港から仁川空港を経由して海外に行く方がずっとラクだ。

しかも仁川空港は、乗り継ぎ客のための設備がとても充実している。広大な免税店、サウナとマッサージに仮眠室まであるスパ、さらにはカジノや9ホールのゴルフコースまである。多少乗り継ぎに時間があっても十分に楽しめる。

こういう「乗り継ぎのための利便性」を考えてこそ、国際ハブ空港といえる。実際、国際空港ランキングではこのところずっと「最優秀空港」という高評価を得ている。

上海の浦東空港は、仁川空港ほど設備は充実していないが、とにかく大きい。ターミナルは気が遠くなるほど横に長く、さらにもう一つある。
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滑走路は、4000m、3800m、3400mの3本が並行してあるので、数多くの飛行機を効率よく離発着させられる。仁川空港も、滑走路は4000mと3750mが2本の計3本が並行してある。どちらの空港もさらに滑走路を増やす計画があり、すでにその土地は確保してある。そしてどちらも24時間運用できる。

さて、成田空港はといえば。

1978年の開港以来、4000mの滑走路が1本だけという状態で過密運用をしてきた。2002年にようやく2本目の滑走路が運用開始したが、土地の買収が進んでいなかったので2180mという中途半端な長さになった。これでは国内とアジアの近距離線しか離陸できない。長距離便はたくさんの燃料を積んでいるのでとても重く、そのため離陸には長い滑走路が必要になる。ようやく2500mになったのが去年の10月だが、それでもアメリカ東海岸やヨーロッパ向けの便は離陸できないし、確保できた土地にとりあえず作った滑走路で、ターミナルから遠く使い勝手が悪い。

そして最大の弱点は、騒音問題から夜間の飛行ができないこと。

地元の反対を押し切ってむりやり成田に空港を造ったものの、空港内には未買収の土地が残っていて滑走路はなかなか伸ばせない。大体にして都心から遠すぎるし、夜間使えない空港は発展の余地がない。

結局、成田空港は世紀の大失敗だったのだ。そもそもここに空港を造ったのが間違いだった。今から何をどうやったって、成田は国際ハブ空港になどならない。そもそも国際空港としてレベルが低い。

シンガポールのチャンギ空港、タイのスワンナプーム空港など、他にも国際ハブ空港として整備されている空港はある。今後、羽田空港に4本目の滑走路ができたとしても、そもそも飛ばせる国際線の数は限られている。それに4本の滑走路は並行ではなく井桁のような形になっている。

滑走路が並行に並んでいるのと、井桁の形になっているのとでは運用の仕方が違う。つまり、羽田は4本全ての滑走路を同時に使えるわけではないのだ。これでは国際ハブ空港になどなれやしない。

ここから得られる教訓は、国は平気で間違えるということ。しかも、間違いを決して認めないし、決してやり直さないということ。

間違えたことは他にもたくさんある。それをどうにかしようということで政権が代わった。長い時間をかけて間違えてきたものを、半年や1年でどうこうできるわけがない。別に総理大臣は誰でもいいが、もっと間違いを修正できるまでは、簡単にもとの政党に政権を戻してはいけない。いとも簡単に、従来のやり方に戻り、そしてまた間違えるから。

上海にいます

新年は上海で迎えた。

上海に意味があったわけじゃない。旅行を4日間と決めてから、書店の旅行ガイドコーナーの前でなんとなく決めた。

上海は今年、万博を控えている。発展し続けているのは知っていたが、想像をはるかに超える発展ぶり。高いビルがそこらじゅうにあり、まだまだ建ち続けている。上海の人が東京に来て、六本木ヒルズを見ようがミッドタウンを見ようがなんとも思わないだろう。

画像を載せようと思ったのだが、持ってきたパソコンには画像サイズをうまく調整できるソフトが無かったので、日本に帰ってから載せることにしよう。


心機一転

落ち着くところに落ち着いたような気がしている。

ブログの移転先のことではなく、番組のことでもない。
住んでいる部屋のことでもなければ場所のことでもない。

大事なこと。
大事なひと。
それだけあればいい大切なもの。
いま生きている自分のよりどころ。

いろいろなことが
やっとちゃんとわかった。
わからせてもらった。

おかげで
ようやく本当に迷わなくなった。
誰の尺度でもない自分の尺度で
自分の毎日を考えられるようになった。

自分の居場所がはっきりとわかった。

繰り返しになるけれど、
居場所というのは職業ではなく
住んでいるところでもない。

世の中にはいろいろなものの見方があり
価値観があるけれど、
そういうものとはまったく関係がない。
そういうところに
自分の居場所を見つけられたら
とても落ち着くし
幸せ。

そんな心境になったので
ブログも引っ越しすることにした。

新年早々どうしちゃったんだと思う人が
いるかもしれないけれど
別にいい。
私は新年を
ほんとうに新しい気持ちで
迎えているから。

あけまして、おめでとうございます。

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