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毎日乗っている地下鉄の謎 梅原淳 平凡社新書
「地下鉄はどこから入れるんでしょうね」と考えて夜も眠れなくなったのは春日三球さんだ(三十代以下は何の話かわからないと思うので適当に検索してみてください)。日々地下鉄に乗って通勤通学している皆さんは、そんなことを考えたこともないし悩んだこともないだろう。でも、どこから地下に車両を入れるかというのは結構面白い。私は、地下鉄を地下に入れるところを見たことがあるのだ。
フリーになって最初のレギュラーだった「めざまし調査隊」の、まさにいちばん最初の仕事が、都営大江戸線の車両が車庫に運ばれるまでを追いかけるリポートだった。工場から船で届いた車両が、トレーラーに載せられて車道を走り、木場公園の地下にある車庫に入るまでを、夜を徹して追いかけた。
東京でのリポートの仕事が初めてだったので緊張していたのだが、ディレクターからは「大きい!ってもっと驚いて」とか「リアクションが薄い」とかいろいろ言われ、正直へこんだ。でも、大江戸線は建設費を抑えるために、トンネルの断面が小さくて済むリニアモーター車両を導入していて(そのことについては自分で調べてあった)車両そのものも小さかった。印象として小さいものについて「大きい!」とは言いづらいなぁとか、いろいろ思うところはあったのだけれど、なにせ初めての仕事だったからとりあえず言う通りにした。東京で仕事をするってこんなもんなのかなぁとか思いつつ。今はもちろん、現場でちゃんと自分の考えを伝えて、お互い納得のいく仕事ができるだけのキャリアを積んだけれど。
話がずれた。木場公園まで運ばれた車両は、クレーンで地下の車庫に1両ずつ降ろされるのだが、降ろすために空いている穴が、車両よりちょっとだけ大きいぐらいの穴だった。穴としては大きいけれど、電車1両を降ろすにはギリギリなんじゃないの? というぐらいの大きさ。そこに、担当の方が手元のリモコンで見事に車両を降ろしていくのだ。1センチ単位で調整できるというので、そこはディレクターに言われずとも興奮して驚いた。
この本によると、地下に車庫を作るのはお金がかかるので、たいていの地下鉄の車庫は地上にあるし、路線によっては相互乗り入れをしている他の鉄道の先に車庫があるそうだ。つまり、ほとんどの地下鉄の車両は、つながっている地上の線路から地下に入れているということ。私が取材で見た光景は特殊な光景だったらしい。
こんなエピソードも書いてあった。春日三球・照代が全盛期だった1978(昭53)年7月、東京都は都営新宿線大島車両研修場に車両を入れる様子を公開した。この車庫は地下にあったので、私が見たようにクレーンで車両を降ろしたのだが、その場所に来賓として春日三球さんが招かれたそうだ。
三球さんが漫才のネタにしなければ、このこと自体セレモニーにはならなかっただろう。三球さんは「これでぐっすり眠れる」とか言ったんだろうか。
2日続けてブログを書いたら、ブログを書く感じが戻ってきた。そういえばもともと文章書くの好きだったっけ(笑)。橋本志穂さんがスター混声合唱団の画像を送ってくれたので、やる気のあるうちに載せてみることにする。
スター混声合唱団は、山田邦子さんが団長をつとめる合唱団。邦子さんが乳がんになったのをきっかけに作った。スターなんて名前がついているので最初は躊躇したのだけれど、中学高校と合唱をやっていたので、今は純粋に歌うのが楽しくて行っている。
メンバーの中にはがん経験者がいる。倍賞千恵子さんと音無美紀子さんは邦子さんと同じ乳がん。フリーアナウンサー仲間の川原みなみさんは子宮がん、原元美紀さんは大腸がん。そして私は小児がん。シンガーソングライターの大野靖之くんは、高校生のときにお母さんを乳がんで亡くしている。
この夏青森に帰ったとき、一緒に飲んでいた中学の先輩が「清保、玉無しって呼ばれてたよな」となにげなく言った。まったく悪気がなかったので、聞いてああそうだったっけと思っただけだった。睾丸がひとつ無いことはみんな知っていて、そう呼ばれていたのも知っていたけれど、さすがに直接そう呼ぶ人はいなかったから忘れていた。
子供のころは、みんなにあるものがないのが恥ずかしかった。デリケートな場所だったし。でも今は、コンサートで自分から話す。「1歳半で睾丸にがんが見つかって、摘出手術と放射線治療をしました。5年生きられるかどうかだったそうなんですが、おかげさまでいま、40歳を過ぎて元気です」と。
ステージ上で自分のがんのことを初めて詳しく話したとき、ステージを降りたら倍賞さんが「そんな風に見えないけど、あなたも大変だったのね」と話しかけてくれた。その頃私はまだ、自分から倍賞さんには話しかけられなかったけれど、とても自然に話しかけてくれたので、それから普通に話せるようになった。倍賞さんだけじゃなくその他のメンバーとも、有名無名を問わず同じように。今は気持ちよく集まって歌える楽しい仲間だ。
写真は先日の埼玉会館でのコンサートのもの。平日だったので「レディス4」が終わってから電車で浦和まで向かった。日帰りで大阪に行ったり、泊まりで新潟に行ったり、スケジュールが合えば極力行く。みんなで歌っていると楽しいし、後ろで聞いていて邦子さんの司会が楽しい。
ステージに立ちながら、生きててよかったなぁと思う。 私は小児がんだったから、自分の闘病をまったく覚えていない。でも、この合唱団で邦子さんや皆さんの話を聞いて、ああここまで生きてこられてよかったな、自分もみんなも、と本当に思う。
大きなホールでも、小さな病院のロビーでも、私達はおんなじ気持ちでまじめに歌っている。がんを経験していなかったら、きっとこの仲間には入っていなかっただろうから、生きているうちはがんにもちょっとだけお礼を言おう。
一応自分のホームページがある。仕事先の人が、私のプロフィールを簡単にプリントアウトできるようにと、10年ぐらい前に市販のソフトで作ったものだ。
世の中にまだブログなんてものが無かったので、プロフィールだけじゃつまらないと思ってマメに日記を書いたりしていたが、途中からブログが登場し、更新が楽なので乗り換えた。それきりホームページはずっとほったらかしになっていた。
今思えば、ホームページにしてもブログにしても、わりと早めに手を出していた気がする。ブログはスタートしたばかりのアメーバブログを使い、ランキングはいつも10位以内だった。もちろん人数が少なかったからで、今なら考えられない。
その後数回パソコンを買い替え、最初にホームページを作ったソフトが使えなくなったので、いつかどうかしなきゃと思っていたのだが、最近ホームページに載せているフリーメールのアドレスが使えなくなっていることに気付いた。これでは仕事の連絡がつかない。
仕方がないので、帰りにいちばん安いソフトを買ってきて、最低限のホームページを作った。結果的に超シンプルになったが、まあいいか。
それにしても、ホームページ作成ソフトを探すのに時間がかかった。ソフトの数が少ないし、あるのは自分でネット店舗を立ち上げるような人のためのものばかりだった。まぁ、ブログにミクシィにツイッターもあるんだから、わざわざ自分でソフトを買ってホームページを作る人なんていないんだろう。
黄砂が飛んでいたせいか、土曜はずっと喉がイガイガしていた。それなのに同期会に行って朝まで飲んだり歌ったりしたので、昨日は喉の調子が最悪だった。ヘンな酒を飲んで珍しく二日酔いだったし。なので昨日は酒を飲まずにブログを更新したわけだが、その勢いできょうも酒を飲まずにホームページを作りなおしたわけだ。わー偉い自分、とたまには自分を褒めてみたりして。
でもこれでまた、あと10年ぐらいほったらかしになるような気もする。結局ダメじゃん。
「アナ話」
高校の同期会に行ってきた。
私が卒業した高校は旧制中学から続く長い歴史があって、毎年一度、東京と青森で大規模な同窓会を開く。幹事を担当するのは卒業して25年経った学年で、来年は私の学年がそれにあたる。なので、連絡先がわかる人でとりあえず集まりましょう、ということになったそうだ。
といっても、高校を卒業してから交流がある同期はたった3人しかいないし、卒業アルバムを紛失してしまったので、もはや思い出しようもない。同期のほとんどが進学する中私は公務員になったし、みんなが就職するときには私は福岡でアナウンサーになっていたので、完全に縁が切れてしまった。住むところも仕事も変化し、出会う人も増え、過去の人と会う余裕などなかったし、実際興味もなかった。誘ってくれた同期だって、結婚式の司会はしたけれどその後は数回会った程度だ。
誰が来るんだかさっぱりわからないので、その誘ってくれた同期と待ち合わせて会場に向かった。入ったところで同級生の女子3人に会った。うち一人は以前近所に住んでいて、スーパーでばったり会ったので知っていたが、他の二人もすぐにわかった。結局30人近くが来たんだと思うが、何らかの関わりがあった人はちょっと考えたら誰だかわかった。中にはまったく思い出せない人もいたが、それは高校時代から知らない人だったんだからしょうがない。
ばったり会ったといえば。福岡時代、門司港でロケをやっていたらスーツを着た人が名刺を持って近づいてきたことがあった。どこかで見たことがあるなと思ったら同級生だったのでビックリした。銀行に入って転勤で北九州市に来ていたのだ。そのときは北九州に行ったときには連絡して、奥さんも含めてちょくちょく遊んでいたのだが、お互い東京に戻ってからは一度会ったきりでまったく会わず、メールも届かなくなってしまった。そんな同級生にも久しぶりに会った。
同級生でも思い出がないと話が続かない。たまたま隣に座った同級生は共通の話題がまったく無かったのだが、おずおずと話す様子を見ていたら同級生全員が「ああ、昔からこんな感じだったね!」と彼の存在を思い出した。
遅れて、一緒に体操をやっていた同期がやってきた。なんというか、仲が良かったというよりは濃い付き合いをしていた奴だったので懐かしかった。彼が話し始めたのは、自分が鎖骨を折って入院していた時に、私が毎日お見舞いに来てノートを写させてくれて助かったという話だったのだが、それで私が思い出したのは、彼のお母さんが当時、石鹸に虫ピンを刺して、そこにリボンを巻きつけて作るもの(いまだにあれがなんなのかわからない)に凝っていて、お見舞いにいくとくれるのだがどう使っていいのかわからなかった、という話だった。
順番に自己紹介をしてわかったのは、私が知らなくても私のことはみんな知っているということだった。清保テレビに出てるよね、というのはなんとなく伝わっているらしい。あとは、いろんな人生があるよなぁ、ということ。東大を出て研究者になった人もいれば(そういえば彼には私が司会をしている結婚披露宴で、同期なんですと挨拶をされたのだがまったく思い出せなかった)別の会社に入ったのに会社が合併して同じ会社になった人達もいたり。
体操を一緒にやっていた奴は、なにかと話題の航空会社でパイロットをしている。「会社はいろいろとありますが、僕は変わらず世界中を飛び回っています」という挨拶はかっこいいと思った。起業したり独立したりしている人も多かった。まぁ私も独立といえば独立だが。会社を辞めたあと税金が払えず福岡市役所に電話したとき、最後に「ズームイン出てましたよね、頑張って下さい」と励まされた話をして笑われた。
清保ってなんか目立ってたよね、と言われた。あと、青森の感じがしないというか、東京とかから途中で転校してきたのかと思ってた、とも。何が目立ってたのかわからないし、普通になまってたんだけど、なんだろう。そういう「昔の自分の印象」を聞くのは面白い。そういえば大学に入ったとき、同級生に青森出身だと言ったら「え、てっきり上がってきた(附属高校から)のかと思ってた。それにしちゃ見たことないなぁって」と言われたっけ。昔は垢ぬけていたのだろうか。今はちっともだけど。
隣のクラスに「エロキ」というあだ名の人がいて、みんなずっと「エロキ」と呼んでいた。四十過ぎたのに「エロキ」って。でも見た目ちょっと薄くなっててエロさは昔より増しているような。そういえば「清保」と下の名前で呼ばれていたのは高校時代までだ。だから普通に呼ばれてなんか変な感じがした。エロキと違って本名なのに。
大半は電車のあるうちに帰ったが、何人かは結局朝まで飲んだ。新宿ではしごして飲んで、東京駅に移動してそこで別れたのだが、降りたい駅で起きられず結局京浜東北線を2往復ぐらいしてしまった。テレビ出てるのに。
というわけできょうは一日使い物にならなかった。洗濯とか掃除とかやりたかったんだけどなんにも出来ず、出かける気にもならなくて寿司の出前を取った。どこかでたぶんサワーみたいなのを飲んだらしく、頭痛がなかなか取れなかったし。というわけで、なぜ急にブログを更新しているかというと、昼間寝ていたのでなかなか眠くならず、かといってお酒を飲む気にもならず、やることがないから。次にいつ更新するかはわかりません。
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