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2011年3月

ここで生きる

先日の放射線についての記事は、もうちょっと詳しく書かなければとか、もうちょっと勉強して書かなければと思ったのでいったん削除した。削除したらどんどん状況が変わってきたけれど。

日本以外の報道はどうなんだろうと検索していたら、この記事にたどりついた。

http://news.goo.ne.jp/article/newsengw/world/newsengw-20110322-01.html?pageIndex=1

すでにツイッターなどでも広まっていると思うのだけれど、とても興味深い記事だった。ベストセラーになった本だけれど、もしまだ読んでいなかったら、内田樹さんの「日本辺境論」を読むと、この記事に書かれている「日本の感じ」に納得がいくかもしれない。

政府はどうもあてにならないが、じゃあ自民党政権だったらと考えても仕方ないし、今は選挙をしている場合ではないので、政治家にはやれることをやってもらうことを期待する。総理大臣としての菅さんも、見ている限りはあてにならないが、じゃあこれが麻生さんだったらとか小泉さんだったらとか考えても意味がないので考えない。

このように、震災のことについても、自分にできることがあればやり、できないことはやらないことにした。

スーパーからは水が消えた。まぁ消えても消えなくても同じことだったけれど、水は水道しかないんだから、水道の水を飲み、煮炊きに使うことにする。宅配のウォーターサーバーが家にあったら飲んだだろうが、無いし、今から頼んだっていつになるかわからないだろうからしょうがない。

この状況を不安だと思ったり、不便だと思ったときに、どこかに移り住める状況ならそうする。できないならここで生きる。文句を言って何かが劇的に変わるなら文句を言う。変わらないなら自分にできることをする。できないならここで生きる。ここで生きる人生を引き受ける。

もっともっと大変な被災地の人たちが、選びようがなくいまやっていることだと思うから。

災害報道を見ないという選択

昨日だったか、某局(チャンネルを変えている途中だったのでどこだかわからない)の番組で、車の中に人がいるのを、おそらく行方不明の家族がいる人が発見して、助けようとする様子を放送していた。その場には子供もいた。そして私はチャンネルを変えた。おそらく、これから出かけて仕事をするという時に見る映像ではない。いま必要な情報でもない。

どんなことが起こったかを、テレビで見ているだけの私達は直接は知らない。でも、どれだけ大変なことが起こっているかぐらいは十分にわかる。「被災地は大変だ」という漠然とした情報は、もう十分だ。私がいま知りたいのは、テレビで出てくる避難所の他に、いったいどれだけの人がどこに避難していて、それ以外に自宅にいて水道も電気もガスも止まっている人がどれだけいて、そこにどのような援助があり、もしくは無くて、今後何かできることがあるのなら何か、といったことだ。

今回の震災に限らず、災害から大体3日ぐらいで、東京からキャスターやアナウンサーが現地に入る。そして「○○キャスター(アナ)が見た被災地」のような中継や特集をやる。

そのことに特に疑問を感じていなかったのだが、今回そのような中継や特集を改めて見ていたら、情報が薄くて感傷的だと心底思った。泥に埋まった茶碗を取り上げて、ここには生活があったんだとか、中継をしながら感極まって泣くとか。自分も同じ立場でそこに行ったらそういうリポートや中継をしただろうとは思うのだけれど、取材者ではない立場で冷静に見てみたら、情報としてほぼ意味は無かった。意味が無いということは、いらないということだと思う。中継がいらないと言っているのではない。個人的な感傷が先走って、情報が無いリポートや中継は、いらないんじゃないか、ということ。

医療や福祉の分野で情報を発信し続けている、ジャーナリストの大熊由紀子さんからのメールに、こういう文章があった。

*特にお子様、感受性の強い老若男女の方々。
というメールを臨床心理士の方から:
テレビで繰り返し繰り返し流される悲惨な映像は、非常に強い吸引力を持ちます(とかく最近のメディアは人々の不安をあおるのが特徴です)。人によっては催眠にかけられたようにテレビの前から動けなくなる人もいるでしょう。こうした映像に何度も何度も自分をさらすことは、何の役にも立ちません。

身体がだるくなったり、ボーッとしたり、涙が出てきたり、妙な罪悪感が湧いてきたり、不安状態にある自分に気づいたら、即刻テレビを消すか、必要なニュース速報のみが流れてくる全く違う番組にしてください。
***私たちが生きていく為に必要な情報が得られれば、それだけでいいのです!***
トラウマの渦の引っ張り込む力はとてもとても強力です。サンフランシスコ大地震の時は、繰り返されるメディア報道が人々にもたらすネガティブなインパクトは甚大だったといいます。

私がチャンネルを変えたのは、まさにこの理由だった。首都圏もまた不安で満ち溢れている。電車は運転本数が少ないので尋常ではないぐらいに混んでいて、時々止まったりしていつ家に帰れるのかわからない。そしてこの状況が、いつまで続くのかわからない。そんな時に、被災した方に起こった悲劇をテレビで見て共有することは難しい。冷たい言い方に聞こえるかもしれないが、いくらそのような映像を見ても、決してテレビに出た人の人生に、個人として直接関わることはできない。見ているのが辛ければ、見なくてもいいのだ。

いま生きている人は、自分の毎日をちゃんと生きること。そうじゃないと、困った人を助けることなどできない。これからも続く計画停電を乗り切ることはできない。

思い遣る気持ち

きょうは計画停電の影響で、電車の本数がとても少なかったので、通勤時間帯は殺人的な混み方だった。それでも電車が動くだけましで、列車の運行そのものをとりやめた路線もある。帰りの電車もとても混んでいて、駅に着くたびに人が乗ってきて押されるので、私のかばんが、前に座っている中年男性の膝にどうしてもぶつかってしまう。なんとか持ちあげようとしていたら、男性が「ひざに載せていいですよ」と言ってくれた。リュックを体の前に背負うような形で抱えたらなんとかなったので「ありがとうございます、大丈夫です」とお礼を言ったら「大変ですよねぇ」と言われた。思わず顔を見合わせて笑ってしまった。

地震のあった金曜日。家の方向がだいたい同じだから乗っていきませんか、と言ってくれたスタッフの車に乗せてもらって局を出たが、大渋滞にはまって車がまったく進まない。あんな渋滞も初めてだったし、東京であんなにたくさんの人が歩道を歩いている光景も初めて見た。そんなわけで、家の近くにたどり着くまで3時間以上かかった。そこから歩いて帰る途中、道端にお盆を持って立っている男性がいた。なんだろうと思って視線を向けたら「おにぎり食べますか?」と声をかけられた。お盆の上には、小さなおにぎり、みかん、乳酸菌飲料が載せてあった。歩いて帰る人のために、家にあるものを持って外に立ってくれていたのだ。「近くなので大丈夫です」と丁重にお断りしたが、あんなに寒かったのに、あの方はどのぐらいの時間あそこに立ってくれていたのだろう。

青森では停電で信号機が消えたが、運転していたみんなが譲りあっていたので事故はなかったらしい。突然の地震に停電で、パニックになってもおかしくない状況なのに。

日本人っていいなぁと、こんなときに思う。

青森と他の地域を結ぶ手段は、現在飛行機しかない。これまで主力はエアバスA300-600R(290席)という機種だったのだが、JALが古い機材の更新を進めていることに加えて、東北新幹線が全線開業したことで、青森-羽田便は機材が小型化した。マグドネルダグラスMD-90(150席)もしくはボーイング737-800(165席)で、ひと便あたりの席数が半分近くに減っている。

昨日乗って帰ってきた青森発の最終便は、時刻表ではMD-90になっていたのだが、事前に指定した座席が変更になっていた。機材がA300-600Rに変わっていたのだ。

JALでは名機とうたわれた、ジャンボことボーイング747-400が先日退役した。JALを象徴する機種だったから大きく報道されたが、続いてこのA300-600Rも、ひっそりと消えるはずだった。なぜひっそりかというと、旧JASの主力機種だったから。

いま、青森-羽田便にはこのA300-600Rが1日5往復投入されている。退役予定だった機材を、現在唯一の交通手段が飛行機である青森便のために飛ばしているのだと思う。

昨日の青森発の最終便は、出発が30分以上遅れたが、機長が「青森空港にはいま、キャンセル待ちの方が300人以上いらっしゃいます。できるだけ多くの方を救いたいと思っています。地上係員が手作業で手続きをしています」とアナウンスをしたので事情がわかった。確かに、1階の待合室やロビーには人が溢れていたのだ。それなのに、2つ前の席の年配の夫婦が、出発の遅れに不満を言っていて、ベテランのキャビンアテンダントがそこを通るたびに何度も深々と頭を下げていた。

遅れることに不満があるのはわかるけれど、なんだかものすごくがっかりした。あなたも私も乗れるし帰れる。生きてここにいる。もし遅れるのが不満なら、文句を言わずに乗る人が山ほどいるのだから代わってくれないかと言いたくなった。

まず、今こうして自分が生きていることを思う。そして、他人の事にすべて共感はできなくても、命を失い、家を失い、家族を失い、明日がわからない人がたくさんいる、そのことを思うことは忘れないようにしたい。どうせそんなことしかできないのだから。混んだ電車の中でも、遅れている飛行機の中でも、他の人のことを思い遣れるようでありたいと、つくづく思う。

ところで、気仙沼の親戚は全員無事だという連絡があった。よかった。まだ安否のわからない方がたくさんいるのはもちろん承知しているし、自分だけ喜んでいる場合ではないのもわかっているけれど、でも本当によかった。

停電の前に節電

計画停電の意味は説明されればもちろんわかるが、発表があまりに唐突で内容が不明確だったので、たくさんの人が混乱したのはしょうがないと思う。電車の本数があんなに減るとは思っていなかった人も多かっただろう。

計画停電と同時にやれることがあるはずだ。きょう帰ってくるとき、街中の広告やネオンが煌々と点いていた。一部、自主的に看板を消灯している店もあったが、街の明るさはそんなに変わらなかった。

オイルショックのとき、看板を消灯したはずだが、国家的な非常事態なのだからまたやればいい。それでどれぐらい節電できるかはわからないが、こういうのは意識の問題だから、とにかく街の看板が全部消えるということが大事だと思う。今は、よそも点けているからうちもいいか、というぐらいの気持ちで点けているところが多いだろうが、全部消したら点けているところは確実に顰蹙を買う。日本人はそういう仲間はずれには敏感だから、効果はあるはずだ。

店の営業をやめろというのではない。看板を消そう、というだけだ。でも、節電の意識が高まると、店内の照明を減らしてみようとか、もっともっと意識が高まってくるし、一般家庭でもそういう意識が高まる。その結果電力に余裕が出て、電車の本数が増える方がずっといいとみんな思うだろう。

原発のことにしろ停電のことにしろ、政府は東京電力に責任を預けているように見えるが、国家的事態なのだから電力のことは国がコントロールしなければならない。夜間の看板の消灯は、自主的努力をお願いするのではなく、国として決定して実行させればいい。コンビニやマクドナルドやスーパーの24時間営業も、夜間は閉店という方向に進むかもしれないし、テレビの放送も深夜はNHKのみ、もしくは輪番制でプラスどこかの民放、ということになるかもしれない。夕方の情報番組は節電のためお休みとか。もちろん自分の番組も含めて。

今回停止した原発が再稼働することは当分、というかおそらく今後もない。電力不足は続くということだ。原油高で火力発電を増やすわけにもいかないし、それ以外の発電は増やしようがない。しょうがないんだから、国がリーダーシップをとってやればいい。国民は従うしかないのだから。

今、うちで点いている照明は蛍光ランプ2つ。あとはテレビとパソコンのみで、エアコンは止めてダウンジャケットを着て、しょうがの薄切りを入れた焼酎のお湯割りを飲んで体を温めながらこれを書いている。電気代が安くなったらいいなーぐらいの気持ちだけど、なんというか、やればできるという感じ。パソコンもテレビも使えなかったら、あきらめて寝ればいいし。

家族の無事を確認する

地震以降、青森の母と連絡が取れなかった。

津波が襲った地域の被害があまりに大きすぎて、その他の地域のことがほとんど報道されない。青森市は陸奥湾という大きな湾に面していて、津波の被害は無いようだったが、いくら青森市の他の人が無事でも、家具の下敷きになっていて見つけてもらえなければ命を落とすことはある。きょう中に見つけられたら24時間以内だから救命できる可能性は高い。

考えていても仕方ないので青森に行くことにした。陸路の移動手段は無いが、飛行機が運航を始めたからだ。

なんとか席を確保して羽田に向かった。停電しているとテレビで言っていたので懐中電灯も持った。空港に着いてチェックインし、飛行機の出発を待っていたら、出発時間の10分前に「出発が35分遅れる」とアナウンスがあったので、お腹は空いていなかったがカツカレーを無理に食べ、売店で鯖の棒寿司を2本買った。青森に着いてから何が食べられるかわからない。

食べ終えて搭乗を待っていたら、東京に住むいとこからメールが届いた。母から電話があった、自宅にいて無事だとのことだった。私の携帯にかけてもまったくつながらなかったらしい。公衆電話から家にかけたら母が出た。電気も復帰したし帰ってこなくていい、と言われたが、もう搭乗手続きが始まるし、ひとまず帰ることにした。がんの手術後続けている抗がん剤の治療についても、電話だけじゃなくて直接話を聞きたかったから。

青森空港からタクシーに乗り、家に帰るまで、いつもの帰省と変わらなかった。あまりに変わらなくて拍子抜けしたが、何もなかったのだからこれ以上のことはない。

母は元気だった。私がお腹の中にいるときに十勝沖地震を経験しているので、揺れた途端家の外に出て、冷静に動けたそうだ。ラジオを聞こうとしたのだが電池がなく、買いに出たがすべて売り切れていた。たまたま電池を買いに来た人と「電池がない」という話をしたら、その人が欲しい電池は単1と単3でうちにあり、母が欲しかった単2はその人の家にあることがわかって、電池の物々交換をしたそうだ。

披露宴でもらった太いキャンドルがあるのを思い出してつけ、しまっていた石油ストーブを引っ張り出して暖をとったが、頭が痛くなったので窓を開けて換気をしたと言っていた。あとで見た地元のニュースで、青森県立中央病院には、使っていなかった石油ストーブを使ったために一酸化炭素中毒になった人が40人以上運ばれてきていた、と報じられていたから、我が母ながら換気をしたのは冷静だったと思う。キャンドルは1本余っていたのでお隣さんにあげて感謝されたそうだ。

母の携帯は2年使っていて、バッテリーが長持ちせず、停電したらほどなく使えなくなってしまったというので、きょうは機種変更をすることにした。ドコモショップに向かう途中、母がトイレに行きたいというのでスーパーに寄ったら、たくさんの人が買い物に来ていた。母も午前中別のスーパーに買い物に出かけたのだが、レジが故障していて買えなかった。この人の多さを考えると、買えるものは買っておいた方がいいと思い、予定を変更して先に買物をすることにした。

並んでいる野菜のうち、日持ちのするものを中心に買っていたら「店頭に並んでいるもののみになります。追加の入荷はいつになるかわかりません」というアナウンスが一度だけあったので、冷凍できる肉など、買い置きできる生鮮品も買った。魚は種類が少なく、パン、納豆、豆腐、レトルト食品、カップラーメン、パスタのソースなどは売り切れていた。

両手いっぱいに買物をしていったん家に戻り、改めてドコモショップに行った。進入学シーズンなので店はとても混んでいたし、母が欲しかった色は取り寄せだと言われたのだが、私がいるうちに機種変更をしてしまった方がいいと思ったので「このワインレッドも大人っぽいよ」と母を説得し、1時間待って電話を受け取った。

朝は買い物ができなかったスーパーに、改めて行ってみた。このスーパーは魚の種類が豊富なのだ。案の定いろいろな魚があったので買い、米も10キロ買った。持ち切れないのでタクシーを呼んだが、携帯は通話規制でつながらなかったので公衆電話でかけた。NTT東日本管内では公衆電話が無料なので、羽田空港でも青森でもお金が戻ってきた。ありがたい。

タクシーの運転手さんは一度私を青森空港まで乗せたことがあるそうで、母に「息子さんアナウンサーだよね」と言っていてちょっと恥ずかしかった。心配で青森に帰ってきた話をしたら「青森の家は雪に耐えられるように建ててあるから、地震には強いんだよ」と言われた。なるほど。いいかげんに建てたら雪の重みで家がつぶれるから、青森市では構造に関して手抜き工事は少ないのかもしれない。

母一人ではこれほど大量の買い物はできなかったから、結局のところ青森に帰ってきてよかった。家では改めて、倒れそうな家具の上に、天井まで届くようにトイレットペーパーやその他のものを置いて隙間を埋めて、家具が倒れないようにした(そういう防災の取材をしたことがあった)。母が「こうやってすぐ帰ってきてくれる息子がいるってありがたいね」と言っていたので、なんだかんだ言いながら不安だったのだと思うが、私も直接会い、改めて家を見ていろいろ確認できたのでやっと安心した。

まったく個人的な話だし、心配性と言われるかもしれない。でも、心配とはこういうことで、安心とはこういうことだと思う。要は、今回の地震は私にとっては他人事ではなかったということ。

気仙沼には母が電話をしたいとこの両親、祖母、兄夫婦が住んでいる。いとこによると、地震直後に電話がつながり、そのときは無事だというので安心していたのだが、その後の津波と火災でどうなったかがわからないという。いとこは会社から歩いて家に帰りついたのが午前5時だったのだが、テレビで津波と火災のことを知って、慌てて私に電話してきた。「こんな時間にごめんね」と言っていたが気持ちはよくわかる。親戚の家は高台のほうにあるが、テレビには被害の大きいところしか映らないので、安否を知るすべもない。

壊滅的な被害を受けたところの映像は、誰がどこを撮っても情報としては同じなので、今後は人が助かったところを取材したらいいのに、と思った。今まではなんだかんだいって他人事だったからわからなかったけれど、過去の災害時、遠く離れた家族や親せきはテレビを見ながらこんな思いだったのだろうと改めて気づく。私も現場で取材をしていたら思い至らなかったし、同じような取材をしただろうから、現場の人を責めるつもりは無いのだけれど。

今は東京にいる。この2日、母についてやれることはやった。親戚についてはとにかく無事を願い、祈るしかない。

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