家族の無事を確認する
地震以降、青森の母と連絡が取れなかった。
津波が襲った地域の被害があまりに大きすぎて、その他の地域のことがほとんど報道されない。青森市は陸奥湾という大きな湾に面していて、津波の被害は無いようだったが、いくら青森市の他の人が無事でも、家具の下敷きになっていて見つけてもらえなければ命を落とすことはある。きょう中に見つけられたら24時間以内だから救命できる可能性は高い。
考えていても仕方ないので青森に行くことにした。陸路の移動手段は無いが、飛行機が運航を始めたからだ。
なんとか席を確保して羽田に向かった。停電しているとテレビで言っていたので懐中電灯も持った。空港に着いてチェックインし、飛行機の出発を待っていたら、出発時間の10分前に「出発が35分遅れる」とアナウンスがあったので、お腹は空いていなかったがカツカレーを無理に食べ、売店で鯖の棒寿司を2本買った。青森に着いてから何が食べられるかわからない。
食べ終えて搭乗を待っていたら、東京に住むいとこからメールが届いた。母から電話があった、自宅にいて無事だとのことだった。私の携帯にかけてもまったくつながらなかったらしい。公衆電話から家にかけたら母が出た。電気も復帰したし帰ってこなくていい、と言われたが、もう搭乗手続きが始まるし、ひとまず帰ることにした。がんの手術後続けている抗がん剤の治療についても、電話だけじゃなくて直接話を聞きたかったから。
青森空港からタクシーに乗り、家に帰るまで、いつもの帰省と変わらなかった。あまりに変わらなくて拍子抜けしたが、何もなかったのだからこれ以上のことはない。
母は元気だった。私がお腹の中にいるときに十勝沖地震を経験しているので、揺れた途端家の外に出て、冷静に動けたそうだ。ラジオを聞こうとしたのだが電池がなく、買いに出たがすべて売り切れていた。たまたま電池を買いに来た人と「電池がない」という話をしたら、その人が欲しい電池は単1と単3でうちにあり、母が欲しかった単2はその人の家にあることがわかって、電池の物々交換をしたそうだ。
披露宴でもらった太いキャンドルがあるのを思い出してつけ、しまっていた石油ストーブを引っ張り出して暖をとったが、頭が痛くなったので窓を開けて換気をしたと言っていた。あとで見た地元のニュースで、青森県立中央病院には、使っていなかった石油ストーブを使ったために一酸化炭素中毒になった人が40人以上運ばれてきていた、と報じられていたから、我が母ながら換気をしたのは冷静だったと思う。キャンドルは1本余っていたのでお隣さんにあげて感謝されたそうだ。
母の携帯は2年使っていて、バッテリーが長持ちせず、停電したらほどなく使えなくなってしまったというので、きょうは機種変更をすることにした。ドコモショップに向かう途中、母がトイレに行きたいというのでスーパーに寄ったら、たくさんの人が買い物に来ていた。母も午前中別のスーパーに買い物に出かけたのだが、レジが故障していて買えなかった。この人の多さを考えると、買えるものは買っておいた方がいいと思い、予定を変更して先に買物をすることにした。
並んでいる野菜のうち、日持ちのするものを中心に買っていたら「店頭に並んでいるもののみになります。追加の入荷はいつになるかわかりません」というアナウンスが一度だけあったので、冷凍できる肉など、買い置きできる生鮮品も買った。魚は種類が少なく、パン、納豆、豆腐、レトルト食品、カップラーメン、パスタのソースなどは売り切れていた。
両手いっぱいに買物をしていったん家に戻り、改めてドコモショップに行った。進入学シーズンなので店はとても混んでいたし、母が欲しかった色は取り寄せだと言われたのだが、私がいるうちに機種変更をしてしまった方がいいと思ったので「このワインレッドも大人っぽいよ」と母を説得し、1時間待って電話を受け取った。
朝は買い物ができなかったスーパーに、改めて行ってみた。このスーパーは魚の種類が豊富なのだ。案の定いろいろな魚があったので買い、米も10キロ買った。持ち切れないのでタクシーを呼んだが、携帯は通話規制でつながらなかったので公衆電話でかけた。NTT東日本管内では公衆電話が無料なので、羽田空港でも青森でもお金が戻ってきた。ありがたい。
タクシーの運転手さんは一度私を青森空港まで乗せたことがあるそうで、母に「息子さんアナウンサーだよね」と言っていてちょっと恥ずかしかった。心配で青森に帰ってきた話をしたら「青森の家は雪に耐えられるように建ててあるから、地震には強いんだよ」と言われた。なるほど。いいかげんに建てたら雪の重みで家がつぶれるから、青森市では構造に関して手抜き工事は少ないのかもしれない。
母一人ではこれほど大量の買い物はできなかったから、結局のところ青森に帰ってきてよかった。家では改めて、倒れそうな家具の上に、天井まで届くようにトイレットペーパーやその他のものを置いて隙間を埋めて、家具が倒れないようにした(そういう防災の取材をしたことがあった)。母が「こうやってすぐ帰ってきてくれる息子がいるってありがたいね」と言っていたので、なんだかんだ言いながら不安だったのだと思うが、私も直接会い、改めて家を見ていろいろ確認できたのでやっと安心した。
まったく個人的な話だし、心配性と言われるかもしれない。でも、心配とはこういうことで、安心とはこういうことだと思う。要は、今回の地震は私にとっては他人事ではなかったということ。
気仙沼には母が電話をしたいとこの両親、祖母、兄夫婦が住んでいる。いとこによると、地震直後に電話がつながり、そのときは無事だというので安心していたのだが、その後の津波と火災でどうなったかがわからないという。いとこは会社から歩いて家に帰りついたのが午前5時だったのだが、テレビで津波と火災のことを知って、慌てて私に電話してきた。「こんな時間にごめんね」と言っていたが気持ちはよくわかる。親戚の家は高台のほうにあるが、テレビには被害の大きいところしか映らないので、安否を知るすべもない。
壊滅的な被害を受けたところの映像は、誰がどこを撮っても情報としては同じなので、今後は人が助かったところを取材したらいいのに、と思った。今まではなんだかんだいって他人事だったからわからなかったけれど、過去の災害時、遠く離れた家族や親せきはテレビを見ながらこんな思いだったのだろうと改めて気づく。私も現場で取材をしていたら思い至らなかったし、同じような取材をしただろうから、現場の人を責めるつもりは無いのだけれど。
今は東京にいる。この2日、母についてやれることはやった。親戚についてはとにかく無事を願い、祈るしかない。
« あけましておめでとうございます | トップページ | 停電の前に節電 »
「日記」カテゴリの記事
- 卒業その2(2011.04.20)
- 卒業その1(2011.04.02)
- ここで生きる(2011.03.23)
- 災害報道を見ないという選択(2011.03.19)
最近のコメント