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災害報道を見ないという選択

昨日だったか、某局(チャンネルを変えている途中だったのでどこだかわからない)の番組で、車の中に人がいるのを、おそらく行方不明の家族がいる人が発見して、助けようとする様子を放送していた。その場には子供もいた。そして私はチャンネルを変えた。おそらく、これから出かけて仕事をするという時に見る映像ではない。いま必要な情報でもない。

どんなことが起こったかを、テレビで見ているだけの私達は直接は知らない。でも、どれだけ大変なことが起こっているかぐらいは十分にわかる。「被災地は大変だ」という漠然とした情報は、もう十分だ。私がいま知りたいのは、テレビで出てくる避難所の他に、いったいどれだけの人がどこに避難していて、それ以外に自宅にいて水道も電気もガスも止まっている人がどれだけいて、そこにどのような援助があり、もしくは無くて、今後何かできることがあるのなら何か、といったことだ。

今回の震災に限らず、災害から大体3日ぐらいで、東京からキャスターやアナウンサーが現地に入る。そして「○○キャスター(アナ)が見た被災地」のような中継や特集をやる。

そのことに特に疑問を感じていなかったのだが、今回そのような中継や特集を改めて見ていたら、情報が薄くて感傷的だと心底思った。泥に埋まった茶碗を取り上げて、ここには生活があったんだとか、中継をしながら感極まって泣くとか。自分も同じ立場でそこに行ったらそういうリポートや中継をしただろうとは思うのだけれど、取材者ではない立場で冷静に見てみたら、情報としてほぼ意味は無かった。意味が無いということは、いらないということだと思う。中継がいらないと言っているのではない。個人的な感傷が先走って、情報が無いリポートや中継は、いらないんじゃないか、ということ。

医療や福祉の分野で情報を発信し続けている、ジャーナリストの大熊由紀子さんからのメールに、こういう文章があった。

*特にお子様、感受性の強い老若男女の方々。
というメールを臨床心理士の方から:
テレビで繰り返し繰り返し流される悲惨な映像は、非常に強い吸引力を持ちます(とかく最近のメディアは人々の不安をあおるのが特徴です)。人によっては催眠にかけられたようにテレビの前から動けなくなる人もいるでしょう。こうした映像に何度も何度も自分をさらすことは、何の役にも立ちません。

身体がだるくなったり、ボーッとしたり、涙が出てきたり、妙な罪悪感が湧いてきたり、不安状態にある自分に気づいたら、即刻テレビを消すか、必要なニュース速報のみが流れてくる全く違う番組にしてください。
***私たちが生きていく為に必要な情報が得られれば、それだけでいいのです!***
トラウマの渦の引っ張り込む力はとてもとても強力です。サンフランシスコ大地震の時は、繰り返されるメディア報道が人々にもたらすネガティブなインパクトは甚大だったといいます。

私がチャンネルを変えたのは、まさにこの理由だった。首都圏もまた不安で満ち溢れている。電車は運転本数が少ないので尋常ではないぐらいに混んでいて、時々止まったりしていつ家に帰れるのかわからない。そしてこの状況が、いつまで続くのかわからない。そんな時に、被災した方に起こった悲劇をテレビで見て共有することは難しい。冷たい言い方に聞こえるかもしれないが、いくらそのような映像を見ても、決してテレビに出た人の人生に、個人として直接関わることはできない。見ているのが辛ければ、見なくてもいいのだ。

いま生きている人は、自分の毎日をちゃんと生きること。そうじゃないと、困った人を助けることなどできない。これからも続く計画停電を乗り切ることはできない。

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